2015年(平成27年)10月5日 月曜日 徳洲新聞 NO.1000 一・二面
私の思い出
鈴木隆夫・一般社団法人徳洲会理事長
開院時に医師がたった5人
1980年、私が院長を務めた茅ヶ崎徳洲会病院(現・湘南藤沢徳洲会病院)は開院時、医師がたった5人しかいませんでした。
開院前には「茅ヶ崎戦争」と呼ばれた地元医師会との確執もありました。
こうした苦しい状況を救ってくれたのが、徳洲会グループの病院です。
当時、福岡徳洲会病院16人、宇治徳洲会病院20人弱、南部徳洲会病院10人以下の常勤医しかいませんでした。それでも応援の医師を、それも自院の中枢スタッフを出していただけたのは、徳洲会の「生命だけは平等だ」の哲学を共有するグループ意識があればこそです。
医療があること自体、患者さんには大切です。
国外に目を転じれば、これまで徳洲会はチュニジアをはじめアフリカ14カ国に透析センターの開設支援を行ってきました。現在、透析センターに命を救われた方は計1143人。徳洲会で研修を受けた現地の医師たちが、仲間に教えるようにもなってきました。引き続きコンゴ、リベリアと透析センターを開設し、命の灯をともしていきます。
私の思い出
福島安義・一般社団法人徳洲会副理事長
方言わからず看護師が通訳
今から20数年も前のことですが、産婦人科医として離島・へき地の病院によく応援に入りました。そこには若い研修医たちがいて、私が専門医として診療した後、研修医たちがきちんとフォローアップ診療をしてくれました。
島伝いに飛び回って診療にあたることもありましが、研修医が各島の病院にいることで、安心して島を後にすることができました。徳洲会には研修医が離島やへき地の病院で研修するシステムが、この当時からあったからこそ、専門医の応援診療が問題なくできたのです。
また、さまざまな離島・へき地に応援に行ったことで、その地域、その土地の文化・風土・風習の違いに触れられたことは、私の人生にとって大きな糧となりました。鹿児島県の大隅半島に開院した大隅鹿屋病院に応援に入った時には、ご当地の方言がまったくわからず、現地採用の看護師に通訳してもらって、患者さんの言っていることがようやく理解できたほどです(笑)。
離島・へき地病院での経験は医師として人として大きな成長をもたらしてくれます。
私の思い出
佐藤耕造・一般社団法人徳洲会最高顧問
外科なしの救急を行うしか
1982年、私が当時、勤務していた北九州市の小倉記念病院に徳田虎雄・前理事長が突然、来られ、福岡徳洲会病院の院長就任を要請されました。4回ほど徳田・前理事長が面談に来られ、その情熱にほだされて院長職をお受けすることにしました。
周囲からは、「なぜ、あんな所に行くのか」と言われましたが、ぐだぐだ言うのを良しとしない川筋気質(筑豊地域の人たちの気性を示す言葉)の私は、事前のリサーチもせず同院に飛び込みました。
同院は開院3年、院長が辞められ、外科が総崩れの状態でした。「外科なしの救急を行うしかないのか」と切羽詰った状況でしたが、南部徳洲会病院(沖縄県)の堀川義文副院長(当時)にお会いしたところ、「福岡病院の外科をつぶすくらいなら、南部病院の外科をつぶしてもいい」と、堀川副院長をはじめ同院の4人の外科医が交代で福岡病院に応援に来てくださいました。
これにより、外科が命脈を保ち、救急医療を行うことができたのです。徳洲会グループの結束の固さに感謝したのが、昨日のことのように思い出されます。