
直言
Chokugen

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直言 ~
原田 博雅(はらだひろまさ)
医療法人徳洲会 常務理事 八尾徳洲会総合病院(大阪府) 院長
2025年(令和7年)08月18日 月曜日 徳洲新聞 NO.1505
去る7月19日、当院で緩和ケア講習会を開催しました。院内外から多くの方々にご参加いただき、無事終了しました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。当講習会は毎年実施しておりますが、今年はあらためて「病名告知」という課題の重さに思いを巡らせる機会となりました。緩和ケアの実践には、告知のあり方が大きく関わっているからです。
現在では、がんと診断された患者さんの病名を告知するのが、当たり前となっています。しかし、かつては、それが困難な時代がありました。
私の母は今から39年前、直腸がんで亡くなりました。当時の私は病名を告げないと決め、結局、最後までそれを貫きました。若い方には信じがたいことかもしれませんが、それほど「がん」という病名を告知することは難しかったのです。
私が研修医1年目だった頃、産婦人科で研修中、患者さんの退院書類に「子宮筋腫、子宮全摘術」と記載したところ、看護師から強く叱られました。正しい情報を記したつもりでしたが、私の正しいことと、他のスタッフの正しいことが異なっていたのでした。良性疾患ですらこうなのですから、がんという病名を伝えることは、なおさら許されることではなかったのです。
母とは、病気のことに触れないまま日々を過ごしました。互いに本心を隠し、必要な時に手を差し伸べることもできず、気まずさだけが残りました。賢明な母ですので、本当は入院始めから、すべてわかっていたと思います。治療が終了し、緩和ケアを行いながら、状態が悪化しつつあるタイミングで、徳島に帰ることになりました。開通して、それまで通ったことがなかった大鳴門橋を車で通った際に、母は「冥土の土産ができた」と言いました。その言葉には、「もう芝居はやめよう」との思いが込められていたのかもしれません。また「病気のことは、ずっとわかっていた。もう長くはないこともわかっている」と言っていたのかもしれません。それでも私は、母のその気持ちを受け止めることができませんでした。母と病気について、率直に語り合うことは、とうとう叶いませんでした。
母は実家に戻って2週間ほどで亡くなりました。ふだんは我慢強かった母が、痛みを訴えた時の表情が記憶に残っています。今となっては適切な緩和ケアができていたとは、到底思えません。今も自問することがあります。告知していたら、どうなっていたのかと。
緩和ケア講習会は、単に疼痛管理の講習会であってはなりません。今回の講習会では「全人的苦痛に対する緩和ケア」が取り上げられました。私は、痛みの緩和にとどまらず、患者さんの“まるごとの苦しみ”に寄り添うことが、緩和ケアの本質であると考えています。最期の時を迎える患者さんが、「人生いろいろあったけれど、感謝しています。ありがとう。」と言ってくださるなら、それが私たち医療者にとって何よりの喜びであると思います。
病名を告げることが当たり前になった背景には、患者さんの知識や意識の変化、そして医療者側の考え方の変化があります。ただ、その前の段階で、多くの患者さんとご家族が、言葉にできない不安と葛藤を抱えていたことを、そして、どうしていいかわからず、悩んでいた医療者がいたことを、どうか忘れないでいただきたいと思います。
最後に、緩和ケア開始後に大きな課題があります。それは「どこで、誰から、どのような医療を受けるか」という問題です。また、それを誰が決めるのかも問題です。ご本人の意向に沿い決めるのが大事な基本ですが、ご家族の協力がないと成り立たないのも事実です。多くの方が自宅での療養を希望されます。何とかそれが叶えられるよう調整していますが、ご家族の介護力が極端に不足している場合、残念ながら転院をお願いせざるを得ないこともあります。ご本人の希望を叶えるにはご本人とご家族、そして医療者との十分なコミュニケーションが不可欠です。
残された時間をどう生きるか――。その選択肢を支えるのが、私たち医療者の役割です。これからも信頼を寄せてくださる患者さんのために、より良いケアを目指し、前に向かって進んでいかなければなりません。
皆で頑張りましょう。