直言
Chokugen
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直言 ~
米田 功(よねだいさお)
一般社団法人徳洲会 徳洲会体操クラブ 監督
2024年(令和6年)10月07日 月曜日 徳洲新聞 NO.1461
2013年1月から当クラブ第3代監督を務めています。選手としては2000年から08年の現役引退まで所属しました。皆様には日頃のご支援・ご声援、またパリ五輪でも多大なる応援をいただき、誠にありがとうございます。「直言」への登場に戸惑いもありますが、大変光栄に感じております。自己紹介を含めチームづくりのことなどを執筆します。
商社勤務の父の都合で、私は両親がドイツ駐在中に生まれました。生後間もなく腎臓に病気が見つかり、帰国し治療を受けました。育ったのは大阪府堺市です。小学1年生の時、小児喘息を患う私を両親は心配し、体操教室に通わせてくれました。体操漬けの日々を過ごし強豪の清風中学・高校に進学、一貫して厳しい練習環境に身を置きました。その反動で、大学では体操を楽しもうと順天堂大学に進みました。
しかし、自分をもう一度変えたい、厳しい環境でもっと成長したいと、卒業後、徳洲会体操クラブに入りました。ですが、2000年のシドニー五輪での代表選考で落選、その悔しさをバネに努力を積み重ね、4年後のアテネ五輪では日本代表に入り、主将として団体総合で金メダル、種目別鉄棒で銅メダルを獲得しました。小学校から中学校にかけ「天才だな」と言われることが多く、そんな自分が格好いいと思っていました。シドニーまでの私の価値観は「天才=かっこいい」です。しかし、代表落選を経験し本当に格好が良いというのは、シドニー五輪代表に選出された当クラブの藤田健一選手や笠松昭宏選手のように、努力して結果を出せる選手だと痛感しました。それがアテネにつながったと思います。今の私の価値観は「努力=かっこいい」です。
日本体操協会会長を務めた徳田虎雄・名誉理事長の存在も非常に大きかったです。当時の東京本部の8時会に出席し、徳田先生の存在感に圧倒され、自分が引っ張り上げられる感覚がありました。徳田先生の「限界を少し超えたところに真実がある」、「無理な努力、無駄な努力、無茶苦茶な努力をすれば必ず道は拓ける」、「二兎を追うものは三兎も四兎も得る」、「自分の思う逆を行け」という言葉を座右の銘とし、判断の指標としています。今年11月には国内最大級の男子体操専用体育館「徳洲会ジムナスティクスアリーナ」がオープンします。今後も当クラブの存在感を世界に示していきます。
13年は当クラブの低迷期で、監督を引き受けるからには厳しさをもって改革する考えでした。とくに16年のリオ五輪以降は、何が何でも東京五輪に代表選手を出すことを目標に、新しいルールや仕組みを導入し、改革を加速させました。たとえば選手とは1年ないし2年単位で契約を結び、成果が出ない場合は延長せず、選手の入れ替えを図る施策を実行しました。2軍制度の導入による競争意識向上にも取り組みました(現在は選抜制度と呼称)。やはり組織は“人”がつくるのだと、ひしひしと感じています。監督就任後、初めて採用した選手に瀬島龍三選手がいます。ややもすれば厳しい制度に選手たちの反発も予想されましたが、キャプテンだった彼は、私の心配をよそに2軍制度の意図を理解し、前向きに取り組んでくれました。
10年ほどかかりクラブが自分の理想とする形になってきました。すると、ジュニア世代を育成する先生方が、選手を送ってくれるようになりました。私たちの取り組みを見て、人が人を送ってくれる。そして送り出された人がチームをさらに良くしてくれる。杉野正尭や北園丈琉はそうして加入し、クラブの空気を加速度的に良くしてくれました。こうしたチームづくりのなかで、先に高校1年生で入部していた岡慎之助も本領発揮に磨きがかかりました。目下、高校生までのジュニア世代との交流にも力を入れています。
先日、東京本部でパリ五輪の結果報告をした際、東上震一理事長から「勝ち続けることの難しさ」をお話しいただきました。次に目指すべきは、皆から憧れられ、常に勝つことが当たり前のチームに飛躍を遂げることです。徳洲会グループに体操クラブが存在する意味をこれまで以上に考えながら、医療・介護・福祉に貢献する徳洲会にふさわしいクラブを目指します。
皆で頑張りましょう。