徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

藤原 葉子(ふじわらようこ)ホームケアクリニック札幌院長

直言 生命いのちだけは平等だ~

藤原 葉子(ふじわらようこ)

ホームケアクリニック札幌院長

2019年(令和元年)12月16日 月曜日 徳洲新聞 NO.1215

「自宅で過ごしたい」と願うがん患者さん
サポートのため在宅緩和ケア体制を充実
“十人十色”の日々に伴走できることは喜び

前院長の前野宏・札幌南徳洲会病院総長より引き継ぎ、2016年に院長に就任しました。

転勤族の父の関係で、子どもの頃から岐阜県、大阪府、北海道函館市と6~7年ごとに転居。4歳下の弟が病弱なため、頻繁にかかりつけ医に運ばれる様子を見て育ちました。古めかしい診療所にある『サザエさん』の漫画本が目当てで、よく付いていきました。思えば、この経験が私にとって医師の原点です。

気さくな初老の女医さんで、地域住民からの信頼があつい方でした。病児の弟のみならず、必ず私にも声をかけてくれ、その懐の深さと、つねに自然体で接する姿は、子どもの目にも、自立した女性のあり方として「格好良い」と映ったものです。

また、高校生の時に親が、がんを患い長期入院しました。告知を受けた親の話は支離滅裂で、病状を把握できないもどかしさがあり、自分に医療知識があればと強く感じたことを今でも覚えています。そして信州大学医学部に進学しました。

安心し穏やかな顔の患者さん 遠方から毎日通う温かい家族

大学卒業後は三井記念病院で麻酔科医として、手術麻酔に明け暮れる日々を送りましたが、6~7年ごとに転居するサイクルは変わらず、2000年に札幌近郊に転居しました。札幌は水が合うのか、腰を落ち着け、住み続けて今に至ります。

07年に一念発起して総合診療の勉強を始めました。内科の知識は医師国家試験の受験レベルだったため、指導医に多大な苦労と迷惑をかけながらの再研修。そんなある日、不明熱の高齢入院患者さんを担当、進行胃がんでした。診断結果を本人・ご家族に伝え、今後どう過ごしたいかを相談した時、全員一致で「抗がん剤治療は行わず自宅で過ごしたい。症状が出た時には入院したい。その時は、また主治医になってほしい」と希望されました。緩和ケア病棟のMSW(医療ソーシャルワーカー)と面談をすませ、入院予約をした後、退院。2カ月後、肺動脈塞栓症で救急搬送されてきました。

指導医と緩和ケア病棟医長の配慮で、約束どおり私が彼女の主治医となりました。胃がんは進行していましたが、愛らしさはそのままで、1カ月後、眠るように亡くなりました。緩和ケア病棟スタッフによる温もりのあるケア、穏やかな顔の患者さん、愛する妻・母のため毎日、遠方から通った温かい家族――。どこか自分の原点ともリンクし、「このために医師になったのだ」と実感した体験でした。そして緩和ケア内科医となりました。

しばらくは在宅緩和ケアと緩和ケア外来や緩和ケア病棟で診る充実した日々。しかし、当時勤務していた病院の方針により、訪問診療部門から撤退することになってしまいました。「家に帰りたい人を支えたい」と退職の決意をした矢先、前野先生に誘われ、15年に当クリニックに入職。高名な前野先生と働ける幸せはもとより札幌随一の訪問看護師である田中ひとみ看護師、提箸(さげはし)秀典MSWと共に働けることは、この上ない幸せでした。

家で過ごしたいと願う方への対応はさまざま。十人十色の日々に伴走できることは喜びです。なかには外来化学療法のため通院中の在宅患者さんが急に悪くなりSOSが来ることもあります。そんな時は患家がER(救急外来)のように慌ただしくなりますが、「来てくれて助けられた」、「家で最期まで過ごせて良かった」と言われることで元気が出ます。

「あそこに行けば何とかなる」地域に開かれた“場”をつくる

最近は10~30代の若いがん患者さんも増えています。症状緩和を行いつつも、他愛の無い会話を楽しみ、時に意思決定支援を図り、時にささやかな楽しみを手伝い、日常が輝くようなちょっとしたサプライズをボランティアの力を借りて織り交ぜる――まさにチーム医療です。専任者不在のため訪問リハビリテーションができず歯がゆい思いをしてきましたが、このたび理学療法士兼リンパ浮腫セラピストが入職し、より充実した体制を構築できました。

目下の課題は、地域の医療職・介護職を対象とした在宅緩和ケア教育の確立です。専門研修プログラムによる3~6カ月の長期研修医受け入れにも対応しています。将来的には、「がん難民」と呼ばれる人をひとりでも減らすため、「あそこに行けば何とかなる」と思えるような地域に開かれた場をつくっていきたいと願っています。

皆で頑張りましょう。

PAGE TOP

PAGE TOP