徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

立石 晋(たていしもゆる)(共愛会病院院長(北海道))

直言 生命いのちだけは平等だ~

立石 晋(たていしもゆる)

共愛会病院院長(北海道)

2019年(令和元年)10月7日 月曜日 徳洲新聞 NO.1205

徳洲会が掲げる理念のありがたみを
地域に還元していくことが私の使命
救急から看取りまで包括的にサービス提供

今年6月、共愛会病院の運営主体が社会福祉法人函館共愛会から医療法人徳洲会に変わるにあたり、名誉院長になられた水島豊先生の後を受け、8月1日付けで院長に就任しました。

当院は1999年に一度閉院し、その後、徳洲会の協力の下、再開した経緯があります。当初は私を含め医師3人体制で、そもそも徳洲会自体を知らず、その理念にも、さほど興味はありませんでした。88年、大学卒業後、私は消化器外科を専攻し大学病院を中心に研修を受けていました。このため救急診療や総合診療の研修は受けておらず、「年中無休・24時間オープンなんて言われても……」と思いながら、研修医用のマニュアル本を買いあさり、救急診療・夜間総合診療を行っていました。そんな私が、まさか院長になるとは露ほども思いませんでした。『徳洲新聞』の「直言」で離島・へき地医療や先端的な医療に携わっている先生方の確固たるビジョンや、目の前の患者さんに対する熱い思いを見るにつけ、しっかりしなければと思いを新たにしています。

「多くの人々に助けられ励まされて生きてきた」

当院は人口約25万人の函館市にあり、近隣には市立病院をはじめ大規模な急性期病院が複数あります。専門医確保が難しく、すべての疾患に対応することはできませんが、離島・へき地医療のような高次施設への搬送時の 困難さがないのは幸いです。ケアミックスの形態をとり、救急の受け入れから看取りの医療まで包括的なサービスを提供できることが、当院の存在価値につながるだろうと考えています。

このたび、「直言」の執筆依頼を受け、医師になった頃の自分を振り返ってみました。私が医師を志したのは、多分に父や周囲の環境に影響されています。

私は北海道北部の寒村で生まれました。現在、人口1700人ほどですが、面積は淡路島ほどあります。当時、そこに医師は父を含めて2人だったと記憶しています。雪深く猛吹雪の日に手伝いとして往診に付いて行ったことがありました。国道を1時間ほど、父の運転する車に揺られ、約束の場所まで行くと、息子さんが馬そりで父を待っていました。そこから馬そりに乗り換え、そりに積まれた藁(わら)のなかにもぐり込み、側道を1時間ほど行ったところに、往診先の家がありました。私は居間で暖を取り、30分ほど父が戻ってくるのを待ち、そしてまた馬そりで車まで送ってもらいました。その間に息子さんが、何度も父に感謝していたことが忘れられません。固定電話も十分にない時代でした。「息子さんは、どこから電話をかけてきて何時間、吹雪のなかを待っていたのだろう」、「父は小さな往診カバンひとつで、どんな治療ができたのだろう」、「ご家族は、なぜ何度も父に感謝していたのだろう」――。本当のところはわかりませんが、私が医師を志すひとつのきっかけになったと思います。

また、私が医師になり腹部結核を患った時に、進行膵(すい)がんと誤診され、忍び寄る死を覚悟しながら開腹術を受けることになり、大学の先輩や同僚たちが先端的な医療を受けられるように、いろいろ準備をしてくれました。医師としての自分はすでになく、担当医の説明に一喜一憂し、看護師や事務職員の言葉に励まされました。術後に持病の慢性腎炎が悪化したため、先輩の腎臓内科医に励まされながらの透析生活が始まりましたが、その後、2007年に腎移植を受けることができました。

振り返ると、本当に多くの方々に助けられ、励まされて生きてきました。元気で仕事ができるようになった今、“生命だけは平等だ”という徳洲会の理念のありがたみが身に染みます。

このありがたみを、今度は当院から地域の皆さんに還元していくことが、私の使命であろうと感じています。

「患者中心の医療」という同じ目的を共有する病院に

理念なき組織は、いずれ腐敗していくものです。ただ毎日の激務のなかで理念の唱和を行っても、単なるお題目になってしまいがちです。大事なことは、何度も立ち止まり振り返り、襟(えり)を正していくこと。病院再開から17年が経ち、徳洲会に法人変更した今こそ、職員全員が初心に戻り、“生命だけは平等だ”という理念の本当の意味を考え直す時です。そして「患者中心の医療」という同じ目的を共有する病院になれるよう、努力していきたいと思っています。

皆で頑張りましょう。

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