直言
Chokugen
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直言 ~
小林 修三(こばやししゅうぞう)
湘南鎌倉総合病院院長代行 (神奈川県)
2019年(令和元年)9月2日 月曜日 徳洲新聞 NO.1200
タンザニアから帰国の途についた機内で、このプロジェクトを受けていいかどうか始終考えていました。「不可能に近い。どう考えてもうまくいくとは思えない」。ただ気付くと自然と頭の中では「どうしたら成功させられるだろうか」という思いに変わっていました。
機内では同国ドドマ大学のキクラ副学長の顔とともに、「この国の医師が、この国で、この国の患者さんを助けたい」という強い意志と、最後にそっと付け加えた「私の弟はインドで移植したが亡くなった」という言葉が浮かびました。こうして共感からスタートした無謀とも思えるタンザニアでの腎移植支援プロジェクトが始まったのです。
成功へのグランドデザインを描いたものの、正直、細かな計画立案や分析はしませんでした。もし詳細に分析したら、やらなかったし、やれませんでした。ただそうあるべきだという強い共感しかありませんでした。まさにオープンエンドの物語的戦略。2008年のモザンビーク初の透析医療を成功裏に導いた時の徳洲会本部の体制や私に付いてきてくれた多くのスタッフの現場力を知っていたので、直感的に判断したのです。最初の大きな決断でした。
暗黙の判断でさえ正しい道であれば、医局員は私を信じて付いてきてくれます。成功の鍵は協力者と考え、帰国後すぐの16年10月に腎移植の権威である東京女子医科大学の田邉一成教授を訪問。私のお願いに、その場で「協力します」との言葉をいただきました。こうして1年後に手術日を設定、この間、当院から5回、タンザニアから医療チームが2回、問題点のチェックや研修のために往来しました。
教育すべき内容や指摘事項をほぼ現場サイドは了解していましたが、物品請求の流れが滞り、大型器械は入っても備品や消耗品の購入が進まず、17年11月に予定した1例目はとても実行できませんでした。想定内でしたが、年末になっても移植予定者3組の免疫学的検査が進まず、現場の相当な苛立ちを感じた私は、従来のペースセッティング的な指示の出し方を強制型に切り替え、タンザニアチームに声を荒げることもありました。
年明けの1月、ようやく彼らの動きにも変化が見て取れ、この時、「Xデイ」を3月22日に決定。今なら言えますが、実はキクラ副学長は3月でご自身が退任される話をそっと私にしてくれていました。なんとしても彼の在任中に成し遂げたかったのです。しかし、情緒的な判断で間違うわけにはいきません。ふたつめの大きな決断でした。
残り2カ月しかないなか、候補3人の患者さんは、ひとりが脳出血で死亡、もうひとりは精神錯乱で透析を拒否、残る1組も胸膜炎を発症。命はどんどん失われていきます。結局、新たなペアの検査が開始されたのは2月に入ってからで、免疫学的検査の結果はこちらに届きません。手術道具も不足し、薬剤も持ち込まなければ当院と同じ薬物投与方法ではできません。移植内科医、看護師と臨床検査技 師の第1陣は出発したものの、現地から苦悩の知らせが私に届きました。「試薬や器械の不具合で検査ができず、免疫細胞の状況が、なおも不明のまま。他の情報から、まず大丈夫と思うが、拒絶反応を起こし1例目を失敗させるわけにはいかない」という不安と焦りの内容でした。
人はミスでは止まりません。恐れで止まるのです。第2幕へ進めるため、私の責任で「それでいい」とゴーサインを出しました。3つめの決断でした。第2陣の外科チームも出国するなか、現地病院では手術場やICU(集中治療室)の整備もできていません。電気メスも作動しないなど幾多の困難のなか“その日”を迎えました。当日、私は何もできず、皆を信じるしかありません。こうして夕刻に移植腎から初尿が出た瞬間、皆が歓喜の声を上げました。
共感できる大切なことであれば、皆で能力の限界を高め「Passion・Mission・Love」を合言葉に、大胆にして細心の注意で進むことができます。かかわった全員が、指揮されたオーケストラ奏者のように目的に向かって役割を果たしてくれました。大きな夢や目標を実現するために、明確なビジョンをもって皆が渦の中心で活躍したからこそ成功したと言えます。これからも皆で頑張りましょう。