徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

三角 和雄(みすみかずお)(千葉西総合病院院長)

直言 生命いのちだけは平等だ~

三角 和雄(みすみかずお)

千葉西総合病院院長

2019年(平成31年)4月8日 月曜日 徳洲新聞 NO.1179

救急を断らないのが徳洲会の原点
優秀な医師を研修医時代から育成
いかにして当院は復活を遂げたか―Episode1

それは今を遡ること21年前、1998年1月のことでした。年初から寒い日が続き、正月明けには関東地方で大雪を観測しました。そんな折、一人の中年男性が千葉県松戸市の常盤平(ときわだいら)駅を降り、千葉西総合病院(旧・千葉西病院)に院長として赴任するため向かっていました。足取りは重く、気分は冬のどんよりした曇り空と同様でした。その理由は二つあります。

一つは、銀行から徳洲会に派遣されていた役員から「赤字に苦しむ湘南鎌倉総合病院、千葉西総合病院、札幌東徳洲会病院の3病院をすぐに閉鎖しないと、S銀行からの徳洲会グループへの融資をストップする」と2、3カ月前に言われていたからです。もう一つは、約1週間前に開かれた徳洲会グループ医療経営戦略セミナーで、当時の徳田虎雄・徳洲会理事長から「君は新年早々から千葉西の院長をやってくれ」と唐突に言われたからです。

米国での臨床研修などを経て徳洲会に入り、八尾徳洲会総合病院の副院長、茅ヶ崎徳洲会病院の院長を経て湘南鎌倉総合病院に居城を構えたと思いきや、神奈川県逗子(ずし)市の自宅から電車で1時間半以上かかる松戸市に赴任。福井県の山奥で生まれ雪国育ちのため、冬の寒さや雪には耐えられます。しかし、グループの経営状態の先行き不安や通勤の辛さを考えると、陰鬱(いんうつ)な気分になるのも無理はありませんでした。しかも病院に足を踏み入れると、さらに愕然(がくぜん)とすることになります。

医局の机には酒瓶などが散乱 68人いた医師が最後は4人に

医局には煙草の煙が充満し、机の上には酒瓶や漫画、週刊誌がうず高く積まれ、医局秘書は一人しかいないため片付けに手が回りません。また医師は救急車が来てもすぐに対応せず、外来患者さんも待たせて、机の上に足を上げ、煙草を吸っている有様でした。さらにそこには1カ月前に米国から帰ったばかりの循環器科医師が、古株の医師たちと毎日のようにバトルしている始末。当時の千葉西病院は病床数408床でありながら、毎月の収益は4億円をかろうじて上回る程度(採算ベースは8億円)と低迷し、研修医は当然のことながら一人もいませんでした。

“ 生命(いのち)だけは平等だ”、「24時間365日、救急受け入れ」をモットーにしている徳洲会ですが、当時は医師会との軋轢(あつれき)が強く、大学医局からの医師の応援もほぼ見込めない状況が続いていました。その千葉西病院の院長に赴任してきた男こそが、現・徳洲会理事長の鈴木隆夫先生で、毎日、医師たちとケンカに明け暮れていた米国帰りの循環器科医師とは私のことです。

しかしそこから、当院のどん底からの再生劇が始まりました。これから、お荷物だった当院が、どのようにして現在の姿になっていったかをお話したいと思います。決して自慢話ではなく、「こういう姿勢、こういう思いでコツコツ努力してきたらこうなった」という過程を皆さんに、とくに新入職員の方々にお伝えします。

さて、私と鈴木院長は、まず「救急を断らない」という徳洲会の原点に戻ることを目指しました。また、地域への啓発活動を行い、医学・医療の知識の提供と自院の紹介に力を入れました。さらに、大学医局や紹介会社に頼らず、優秀な医師を研修医の時代から育てていくという方針も確認しました。

当然、ぬるま湯につかっていた多くの医師たちは反発しました。今まで救急を断り、研修医を育てるということなど考えもしなかった医師たちにとって、私は煙たい存在でした。十数人の医師たちが連名で「三角を辞めさせなければ、自分たちが全員辞める」という書簡を徳田理事長に送り付け、徳洲会本部にまで乗り込んでいきました。ただ、それを徳田理事長は見越していたらしく、笑顔で「大変だったな。じゃあ、君たちは辞めていいぞ。ご苦労さん」と言ったそうです。結果的に68人いた医師のうち、最終的に残ったのは4人のみでした。

自ら目指す医療の成就へ土台から築くことを決心

こんなことがあったのかと驚かれる方も多いと思いますが、鈴木理事長は以前にも「一夜にして医師が全員いなくなる」という事態を大和徳洲会病院、羽生総合病院でも経験していました。ですから、慌てず、騒がず、粛々と対応したようです。世の中に病気にならない人はいません。まじめにコツコツ診療していれば必ず患者さんは来てくれ、地道に努力を続ければ志を同じくする医師は必ず増えてくるものです。

私は大学卒業後3年ほど医局にいたものの、元々、米国での臨床研修を目指していたこともあり、米国で内科、循環器科、それも心臓血管カテーテル・インターベンションを専門に習得し、最後は米国の大学で教鞭(きょうべん)を取りながら開業もしていました。

しかし、国の税金で医師にしてもらった恩返しをするため、日本に帰国することにしました。私が得意とするのは冠動脈のカテーテル治療、とくにダイヤモンドのドリルにより血管内を削るロータブレーターで、93年から始め、今年で26年目になります。この技術を帰国し、指導医として全国に広めようとしましたが、施設基準を満たす施設がなかなか見つからず、たまたま満たしていた当院を紹介され、徳洲会グループの病院と知らずに入職しました。私は自分の目指す医療を成就するため、その土台から築こうと決心し、医療講演や救急患者さんの積極的な受け入れ、研修医の育成を自力で始めましたが、その力になっていただいたのが鈴木理事長です。ほぼ同時期に、当院に着任した私と鈴木先生でしたが、約2カ月後、医局で話をしている時に、信じられないような驚愕(きょうがく)の事実がわかったのです。(次号に続く)

PAGE TOP

PAGE TOP