直言
Chokugen
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直言 ~
松浦 甲彰(まつうらこうしょう)
名瀬徳洲会病院院長(鹿児島県)
2018年(平成30年)11月12日 月曜日 徳洲新聞 NO.1159
“生命だけは平等だ”という徳洲会の理念は真理なのでしょうか? 私たちの社会を見渡すと、さまざまな不平等が横たわっています。「いつでも、どこでも、誰でもが、最善の医療を受けられる社会」の実現を目指す。これは、徳田虎雄・徳洲会前理事長の言葉です。少なくとも、人為的なものに左右されない生命であってほしい――徳洲会の理念には、そんな願いが込められていると解釈してきました。
かつて、私にはもうひとつの“生命だけは平等だ”との出会いがありました。生命科学の進歩が遺伝子やDNAの仕組みを明らかにしつつあった時のことです。生命存続の原動力が子孫に引き継がれながら生まれ変わることを理解した瞬間を、昨日のことのように覚えています。
生まれ変わることの必然性は、「万物には始まりがあり、そして終わりがある」という普遍的な事象の理解にもつながりました。「生まれたものには等しく死が訪れる」。そんな意味での「生命は平等である」との出会いでした。以来、“生命だけは平等だ”は、物事を考えるうえで最も確かなものとして自分の中心に位置付けられました。
私たちは誕生を祝い、弔(とむら)いをし、お墓参りをします。「何故にそのようなことをするのでしょうか?」という問いには、「子や孫のため、亡くなった方や祖先の霊を慰めるため」という答えが大半でしょう。
「ここで順番に眠ることが幸せなんだ」とは、お墓参りのたびに聞かされた父の言葉です。子どもの頃は理解できませんでしたが、今はその言葉を自分の子どもたちに伝えることの大切さを感じています。
私たちの職場は、死を目の当たりにする場でもあります。「ありがとう」と別れの言葉を交わす最期がある一方で、幼子の死や、年老いた両親を残して先立つ、とても悲しく苦しい最期を目にすることもあります。「順番に眠るのが幸せ」との言葉は、いずれ終わりが来るにしても、このような悲劇だけは起こってほしくないという思いが込められていたのです。
いつの頃からか、お墓参りは、やがて訪れる自身の死を受け入れるための心の準備とも捉えるようになりました。自分たちにも、いつかその時が来ることを、その都度、優しく教えてくれているような気がします。
死の恐怖や悲しさの克服は、最期の時まで難しいようです。ゆえに時間をかけ、できれば子どもの頃から、「こうして生まれ、旅立っていく」ことの自然さ・当然さを受け入れさせる訓練が必要と感じます。お墓参りはそのひとつで、受け継ぐべき心のトレーニングと心得ます。自分のためでもあるのです。
長寿社会を迎え、国内では終末期と、その医療のあり方について、さまざまな取り組みがなされていますが、どうも万人向けの終末期対処法はないようです。心構えを学ぶ第一歩は「いつか私たちにも、その時が来る」ことを、日常のなかで意識する時間をつくることだと考えます。若い皆さんには、まだまだ意識したくないことかもしれません。しかし、医療に携わる私たちには避けて通れないテーマです。マニュアルがないのなら、老いも若きも関係なく、それぞれが自分の考えをもち、心構えをしておくべきです。
医学の進歩は長寿社会という成果をもたらしました。結果として多くの人たちが終末期へのとまどいを抱えています。長寿社会を迎えるにあたり取り組むべき課題を、なおざりにしてきたとも言えます。
今後、私たちは、そのとまどいに応える役割を多く担わなければなりません。私たちがどう応えれば、最期に「ありがとう」という言葉を交わせる状況をつくり出せるのか、医療人として心得ておきたいものです。
私自身の“生命だけは平等だ”は徳洲会の理念とは別に、時に自分自身の終焉を意識させる言葉として身近にありました。死を見つめ「終わりは避けがたいもの」と繰り返し確認してきました。その確認は一方で何気ない日常生活を豊かなものにしてくれますし、困難に遭遇した時には救いともなります。“生命だけは平等だ”の理念の新たな考察は、生き方・考え方を変えてくれるかもしれません。皆さんも“生命だけは平等だ”を考察してみてはいかがでしょうか? 皆で頑張りましょう。