徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

加納 宣康(かのうのぶやす)(千葉徳洲会病院院長)

直言 生命いのちだけは平等だ~

加納 宣康(かのうのぶやす)

千葉徳洲会病院院長

2018年(平成30年)8月13日 月曜日 徳洲新聞 NO.1146

病気を経験した今だからこそ思う
患者さんのために何ができるのか
励ましてくれる人との出会いを大切に

院長の職務はさまざまです。私は職員が辞めないような勤務体制を敷くことを大切にしています。患者さんのための医療・福祉に全力投球するのはもちろんですが、職員の幸せこそ病院の進歩には欠かせないと考えているからです。職員が楽しく過ごしていれば、患者さんも楽しく過ごせます。私は徳洲会の素晴らしいところのひとつに、職員の生活が安定していることがあると感じています。

徳洲会には苦しい時代があっと聞いています。徳洲会の徳田虎雄・前理事長が、賞与を支給するために奔走されたことは、雇用を維持するためとはいえ、大変な労苦があったことは想像に難くありません。以前の徳洲会グループ医療経営戦略セミナーで、給与の見直しについて話がありました。私自身は断行しても良いと思っています。経営が悪化すれば、職場そのものがなくなりかねず、職を失えば生活は不安定になります。その前に、早いうちから手を打つことが必要だと思います。

かつて私が在籍していた亀田総合病院も、世間の評価が低かった時代があり、名のある病院にするために苦労を積み重ねました。その目的をほぼ達成できた頃、私は次のステップを思案していました。そうしたなか一般社団法人徳洲会の宮﨑仁宏(まさひろ)・医師人事室前部長からお誘いを受け、徳洲会への入職を決めました。徳洲会の病院は、徳洲会の名がなくても患者さんが集まります。それは“生命だけは平等だ”の理念を秘めながら、患者さんを支えている職員がいるからです。この素晴らしさを職員の皆さんはもっと意識し、誇りをもってほしいと思います。

かつて伊勢湾台風で被災経験 西日本豪雨は他人事ではない

国内外で災害医療などに取り組むNPO法人TMAT(徳洲会医療救援隊)も素晴らしい組織のひとつです。

7月の西日本豪雨で多くの方々が犠牲になりました。思い出すのは1959年、私が10歳の時に経験した伊勢湾台風。家屋が倒壊する被害に遭い、天災の恐怖を嫌というほど味わいました。私の家は玄関の戸が飛んでしまい、その戸を取り戻して玄関に再び立て、午後10時から未明の3時まで、ひたすら押さえ続けました。西日本豪雨で生活を奪われた方々のことを考えると、とても他人事とは思えません。TMATは岡山県に隊員を派遣したり、広島県や愛媛県で調査活動をしたりしました。こうした活動が徳洲会にあることを心強く思います。

私自身、TMATで活動したい気持ちを強くもっています。しかし、周囲からは心筋梗塞、脳腫瘍、2度の脳出血を経験した私の体を慮(おもんぱか)り、行くことを止められています。

徳洲会というと、世間では「救急をやっているところだろう」と思われがちですが、それだけではないことを今後、アピールしていきたいと思います。これからの時代を考えると、救急医療以外に、がん患者さんへの対応、がん診療が不可欠です。

当院の救急車受け入れ件数は1年で4000件以上と、千葉県船橋地区で最大件数を誇っています。救急からの入院率も7月は平均47.7%と高い数値を保ちました。これは患者さんのための医療を実践している証左と言えるでしょう。

私は自分が病弱の身にあることを棚に上げ、救急で来られた方やがん患者さんの行く末を考えます。とくに、がん患者さんのために、がん診療に必要な専門科を設けることが責務だと思っています。

新人の頃の気持ちを忘れずに 新たな出会いが喜びに変わる

かつて私は大学の医局で、いわゆる“いじめ”に遭いました。しかし、医師として多くの方々のお役に立ちたいという信念があったため、耐え忍ぶことができました。そのおかげで人間的にも外科医としても大きく成長できました。悲運に見舞われても、それを栄養に成長しようとする姿勢が体得できたのです。

皆が新人の医療従事者であるという意識で、患者さんに応対すれば、新たな出会いが生まれます。この繰り返しが医療従事者にとっては、喜びに変わっていきます。

一般社団法人徳洲会の鈴木隆夫理事長が病院運営で苦しかった時、「大丈夫よ。私たちがいるから」と励ましてくださった患者さんがいたと話されていました。私たちは、このような人との出会いを、もっと増やしていきたいものです。

皆で頑張りましょう。

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