徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP 45th

直言

Chokugen

東上 震一(ひがしうえしんいち)(医療法人徳洲会副理事長 岸和田徳洲会病院院長(大阪府))

直言 生命いのちだけは平等だ~

東上 震一(ひがしうえしんいち)

医療法人徳洲会副理事長 岸和田徳洲会病院院長(大阪府)

2017年(平成29年)12月25日 月曜日 徳洲新聞 NO.1114

良書は“無二の親友”と言える存在
人生を豊かにする一冊との出合いを
いつでも私たちを優しく受け入れて心癒やす

「惑溺(わくでき)」という言葉があります。ひとつのことに溺れるがごとく心奪われ、没入している様を言います。否定的な意味合いの表現ではありますが、振り返ると私はいつの時点でも、その時々のいろいろな物に惑溺しながら生きてきたことに思い至ります。高校時代のクラブ活動や、追い詰められた浪人時代の受験勉強といったものも、考えてみれば惑溺のひとつと言えなくもありません。

熱しやすい私の性癖に起因する部分もありますが、人は絶えず何かに心とらわれて生きているのかもしれません。

どんなタイプの本でもいいから、いつも何か本を持ち歩き、寸暇を惜しんで「読むこと」に執着する姿勢は、まさに私の惑溺と言えます。

中学生の頃にアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』の復讐譚に心躍らせ、吉川英治の『三国志』、『新・水滸伝』の世界に魅了されて以来、読書は私のかけがえのない時間となりました。

好きな本に出合った時、我を忘れて読むことに没頭する感覚は、まさに〝無二の親友〟と出会ったかのような喜びに似ています。

付き合っている友だちを見れば、その人がわかるというように、読んでいる書物からも、その人の「人となり」をうかがい知ることができるように思います。それは人と書物の間にも、人間同士と同じような触れ合いが生じているからにほかなりません。

金庸の武侠小説『笑傲江湖』荒唐無稽な物語が正義を謳う

忙しい外科医生活のなかにありながら、私が繰り返し読み返し、その物語の世界に逃げ込み、そして楽しみ、癒やされた本を紹介させていただきます。金庸(きんよう)(1924~)という中華文化圏での大ベストセラー作家をご存知でしょうか。彼は武侠小説というジャンル(香港映画のカンフーものは、これを下敷きにしている)を確立し、15作の長編を発表していますが、そのなかでも『笑傲江湖(しょうごうこうこ)』は私の一番好きな作品です。

金庸の武侠小説の醍醐味は、主人公がさまざまな試練を経て、武術の超人へと成長していく過程をワクワクしながら読み進めることにあります。正邪(正派、邪教)入り乱れての物語の展開は荒唐無稽(こうとうむけい)でありながら、逆にステレオタイプの勧善懲悪ではない、複雑な現実社会を投影したかのような深みを読者に感じさせます。正派にも偽(ぎ)君子はいるし、邪教と言われる集団にも「義」を重んじる者がいるという娯楽小説の体を借りながら、「正義」という崇高な美徳こそ、最も尊いものであることを謳い上げているのです。

謎の老女を先導している純朴で一本気な主人公が、老女から絶対に振り返って姿を見てはいけないという条件で、お供を許される場面があります。この老女から武術の奥義にかかわる口述を受けながら、旅を続けるわけですが、ある時、小川にさしかかって主人公が老女のために手拭いを絞っていると、その川面に美しい娘の姿が映し出されるシーンがあります。声色を変えて老女に扮していた娘は、じつは邪教の首領の娘で、しかも武術の達人という設定です。『笑傲江湖』の数ある魅力的な場面のなかで、何回読んでも興趣(きょうしゅ)尽きないと私が感じる部分を、「直言」という場にあまりにそぐわないと知りつつ、あえて紹介しました。

自分の考えよりも賢明で円熟した内容をもつもの

読書は何も高尚なものである必要はありません。しかし少なくとも自分の考えより、賢明で円熟した内容をもつものであるべきです。私たちがたとえ逆境にあって、失意の底に落ち込んでいようとも、いつでも私たちを優しく受け入れ、心癒やしてくれる、そういう書物が自分にとっての良書と言えるものです。

イギリスの随筆家であるウィリアム・ハズリットの書物についての言葉を最後に記します。「書物は我々の心に音もなく忍び寄り、詩の一行は血液に溶け込んで体内を駆けめぐる。人は青春時代には読書に時を忘れ、年老いてからはそれを思い出す」、「あらゆるものを自分の心に照らして見、そして信念と希望を頼りに進む者、若かりし日の彼の行く手を照らした星は、いまだ彼を見守っている」。

皆さん、ぜひ生涯の伴侶とも言うべき良書、〝無二の親友〟に出会って、人生を豊かなものにしてください。

皆で頑張りましょう。

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