徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

松浦 甲彰(まつうらこうしょう)(名瀬徳洲会病院院長)

直言 生命いのちだけは平等だ~

松浦 甲彰(まつうらこうしょう)

名瀬徳洲会病院院長

2016年(平成28年)5月2日 月曜日 徳洲新聞 NO.1029

地域医療の担い手はその地域のなかで
実践を積み鍛錬重ねることで培われる
「ありがとう」の声を聞くことが最大の目標

1994年、奄美大島に旧・名瀬病院(60床)が開院しました。同年9月、徳之島徳洲会病院から名瀬病院に赴任を命ぜられた私は不満を感じていました。7年半にわたり徳之島の医療に貢献してきたことに、多少なりとも自負心をもち始めていたからです。徳之島病院は島の医療の中心であり、そこを離れて鹿児島県立大島病院という高度の医療機関を有する奄美本島に身を移すのは、自分の存在価値を下げてしまうことにほかならないと感じていました。

名瀬病院は60床の小さな病院でしたが、当時は新たに名瀬徳洲会病院を建設することの必要性に疑問すら感じていました。徳洲会が資金繰りに苦慮していた時代で、当初の構想では病院は資金難で建設できなかったそうです。名瀬徳洲会病院が開設されたのは97年のことでした。

同じ離島の地域でも医療事情の差から生まれる対応の違いある

私が学んだ医療技術の多くは、徳之島という地域で必要に迫られて学んだものでした。私たち臨床医にとって日々の学習や鍛錬(たんれん)の最終目標は、それらが病める人たちの医療に生かされ、役立つことで達成されます。それが喜びであり、幸せを感じる時でもあります。そのことが励みとなって、さらなる向上心をもたらしてくれました。

患者さんから「ありがとう」の声をいただくことが私たちの最大の目標ですから、やはりその結果にこだわる必要があります。そのチャンスが減ると感じた名瀬への転勤は、生きがいを削(そ)がれるような出来事でした。

旧・名瀬病院での医療は、県立病院のない徳之島とは多少異なるものでした。恵まれた医療環境圏への移動は、虚脱感や焦燥感をもたらしました。しかし、時間とともにこの地でも活躍の場はあると考えるようになりました。徳之島では、より切羽詰まった対応を求められる医療が多かったと記憶していますが、名瀬では自ら貢献できる医療を探す余裕がありました。同じ離島の地域でも、医療事情の差から生まれる違いです。そういった差異はあったにせよ、活躍の場を見出すことができました。

地域が私たちに望むもの、それは地域医療の担い手です。大病院で研修し、講習会で学ぶだけでは担い手は育ちません。その地域で腰を据えて、医療を行うなかで育つと私は理解しています。医療の提供は押し付けでなく、患者さんや地域に寄り添うものです。病気の知識や医療技術の習得だけでは、地域の患者さんたちが何を望んでいるのか、どのように手助けすることが最善の医療なのかがわかりません。しばらく、その地域で医療を実践することで、それが見えてくるようになり、また自分に何が足りなくて何を学ぶべきかがわかってきます。

医療を新たに学ぶチャンスをつくり、学び取ったものを地域にもち帰って実践する。その繰り返しが地域医療を強くしていく力になります。名瀬という地域で望まれる自分、名瀬徳洲会病院として地域で望まれる役割を探し見出す作業を続けてこそ、地域の要求に応えることになると考えます。そのようなあり方が私の求める地域医療です。

新専門医制度を見極めながら地域医療への貢献の場を追求

開設時の名瀬徳洲会病院は、私にとって徳洲会の理念とは裏腹のイメージをもった病院でした。奄美のなかでも医療環境に恵まれていた名瀬市内に、あえて必要とは思えない病院だったからです。ところが今、名瀬徳洲会病院は奄美のグループの医療施設を支える中核病院になっています。当院抜きでは、現在の奄美本島のグループの医療提供体制を維持し得ないことは明白です。名瀬病院新設は、この将来像が見えての構想だったのでしょうか? その先見の明に頭が下がります。

国は超高齢社会のなかで従来の専門医制度を見直し、総合診療専門医を増やす計画を実行しつつあります。ぜひ実現してほしい構想ですし、実現しなければならないと考えます。ただし、その手段が整っていないことが気になります。地域医療の担い手は、その地域で医療を実践するなかで培われるべきです。隣の島の徳之島と奄美大島とで医療内容は随分と違いました。その地域で医療を実践でき、研鑽(けんさん)を積める仕組みをつくってほしいと考えます。私たちの組織は、それが可能なグループです。今後も制度を見極めながら、地域、離島・へき地医療に貢献できる場を追求していきたいものです。

皆で頑張りましょう。

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