直言
Chokugen
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直言 ~
山口 昌司(やまぐちまさし)
山北徳新会病院(新潟県) 院長
2025年(令和7年)05月12日 月曜日 徳洲新聞 NO.1491
徳洲会を離れて24年、“今浦島太郎”です。前任の小林司院長とは大学の同級で、徳洲会5番目の病院である南部徳洲会病院が開院2年目の1980(昭和55)年に、研修医として一緒に入職しました。小林先生は、途上国の医療を実地体験した当地に最も相応しい医師ですが、館山病院に転勤しました。小林先生とは奇縁があります。大学で最初に声をかけられた人物で、紅衛兵の出で立ちで赤い『毛沢東語録』を差し出し、「君、この人を知っていますか?」と。以来、五十有余年、人生の転換期には必ず登場します。1度目は共に徳洲会に入職したこと。2度目は93年に沖永良部徳洲会病院に後任として赴任したこと。聖隷浜松病院への復職が決まっていましたが、羽交絞めにされ赴任しました。当時、徳洲会は病院を次々と建設しており、その病院は最初から黒字になるわけもなく、赤字の連続で、離島に赴く医師はいない状況でした。まさに生か死か、徳洲会存亡の危機でした。
そんななか、先鋒の小林先生が初めて離島で黒字を出し、後任として白羽の矢が立ったわけです。島で無事に4年勤務し、97年4月に中国地方に初の徳洲会病院を建設すべく、米子市に赴きました。彦名町にクリニックを突貫工事でつくり運営しつつ、病院建設用地の選定や地権者との交渉を行いました。その間に島根、大阪、鳥取で自由連合から国政選挙に立候補し、青木幹雄・元内閣官房長官や石破茂現首相と戦いました。大阪は徳洲会発祥の地、河内天美からの出馬でした。さすがに疲れ煩悶し2001年に徳洲会を離れ、離島医療を実践すべく沖永良部島に開業し15年。島の老人と遊んで楽しく過ごしましたが、結果的に離島での個人開業は維持継続困難で頓挫しました。
3度目は今回、山北徳新会病院で小林先生の後任になったことです。当院は新潟と山形の県境、いわゆる限界集落と言われる地域にあり、中山間地の医療機関が直面する典型的な課題である人口減少・高齢化・人材不足・経営難などを抱えており、グループ病院からの支援なしでは、存続はできません。日本の人口は08年の1億2,808万人をピークに年々、減少を続け、昨年の人口減少は89万人と、実に100万都市がひとつずつ、毎年、消えていることになるそうです。地方都市は衰退しつつあり、人口は大都市へ集中しています。しかし、今後は大都市といえども、恒星の終焉のように、周囲から人を集めながらも爆縮していくと予測されています。
さて、今後はどうするのか? 私は奄美群島での経験から医療機関として、その地域の一員として、一丸となって将来を考えていくことが重要だと思います。古くは琉球、そして大和、米国に従属し抑圧され、長らく日の目を見ることが少なかった奄美群島。そのなかでも、激しい気性で知られる徳之島に生まれた徳洲会創設者の徳田虎雄先生は、側近ですら思い付きもしない常軌を逸した計画を立て、それを次々と実現しました。
「町も、県も、国もできなかった離島に病院をつくってくれた」と涙する支援者。「トラオー、トラオー」と自分の子どものように自慢し、集会があれば何千もの人が集まる。その光景を忘れることができません。
私が医師になったのは母の影響です。母は昨年9月に94歳で亡くなりましたが、若い頃は病弱で、家から外に出ることもなく、臥床の毎日でした。そのためか医療に対する憧景・渇望が強く、「明治の初め、家から出た人が馬に乗って東京に行き医者になった」、「駕籠に乗って永平寺の管長になった人もいる」と、よく口癖のように話していました。三つ子の魂でしょうか?
座右の銘はありませんが、啓蒙思想家の西村茂樹という方のことを調べています。1876(明治9)年の創立以来続く日本弘道会の活動は、素晴らしいと思います。トピックとして、前・新潟県福祉保健部長の松本晴樹先生(湘南鎌倉総合病院で後期研修)のつながりから、新潟県は徳洲会と親密な関係にあり、昨年度、村上総合病院から研修医の派遣が始まり、今年度は新潟市民病院、済生会新潟病院からも受け入れが決まりました。村上総合病院のM君は今年、英ロンドン大学大学院に入学します。皆で頑張りましょう。