徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

湘南大磯病院(神奈川県) 院長
権藤 学司(ごんどうがくじ)

直言 生命 いのち だけは平等だ~

権藤 学司(ごんどうがくじ)

湘南大磯病院(神奈川県) 院長

2024年(令和6年)06月17日 月曜日 徳洲新聞 NO.1445

平塚・大磯・二宮地域の二次救急輪番に
救急車やWalk inの救急患者さんが増加
小児科と婦人科の外来も開設し診療の幅拡大

私は長崎県大村市で1959年に生まれました。父は自衛官で、駐屯地のお祭りに連れて行ってもらい、戦車に乗ったり、火炎放射器を使った模擬演習などを見たりして育ちました。10歳の時に父の転勤にともない神奈川県横須賀市に引っ越し、その後は、ほぼ神奈川で過ごしています。子どもの頃は工作や機械いじりが好きで、鉄道マニアでもあり、大学は工学部に進学し電車の車両開発に携わるのが夢でした。

一緒に工学部を志望していた友人が医学部を受験すると聞いて、私も医学部を受験してみようと思ったのが、医師となったきっかけです。83年に弘前大学医学部を卒業して、横浜市立大学脳神経外科で医師としての研鑽を開始し、大学病院と県内の関連病院を数年ごとに行き来するなかで、手術の技量を習得しました。脳神経外科の手術はマイクロ機器を使った精緻な操作が要求され、工作や機械いじりが好きだった性格に合い、のめり込みました。

大学から初めに派遣された県立病院の脳神経外科部長に「患者さんが亡くなっても感謝されるような仕事をしなさい」と、指導していただきました。頭部外傷や脳卒中で緊急手術をしても、全例を救命できるわけではありません。一生懸命に診療することはもちろんですが、患者さんやご家族の気持ちに寄り添い診療することを教わりました。 

また、別の病院へ派遣された時、上司から「画像を直すのではなく、症状(患者さん)を治せ」と繰り返し言われました。MRI(磁気共鳴画像)など画像診断の発展により、脳や脊髄疾患の診断法は大きく向上しましたが、手術をしても症状が治らなければ、患者さんは満足しません。画像に異常があっても症状がなければ、やたらと手術をしないこと、手術をする時は症状を悪化させない方法を十分考えることを大事にしています。

離島医療の経験が医師人生の糧に 東海大から多数の医師派遣に感謝

大学の医局人事で93年に湘南鎌倉総合病院へ、94年に茅ヶ崎徳洲会総合病院へ派遣され、徳洲会を知りました。当時は徳田虎雄先生が理事長(現・名誉理事長)で、突然、病院に現れては院内回診を始め、「理事長が来られている!」と伝令が回り緊張したことを覚えています。徳田先生の話を直接聞いたことや、応援で離島医療を体験したことが、私の医師人生に大きな影響を与えました。大学医局で経験した医療とは違い、満床でも患者さんを断らないことや、離島・へき地でも高度な医療を提供している医師の存在、全国の徳洲会病院から離島・へき地に医療者を派遣する仕組みなどに感銘を受け、徳洲会でずっと仕事をしてみようと思うようになりました。いったん、大学に戻ることになりましたが、2002年に湘南鎌倉病院へ脳神経外科部長として赴任し、副院長を務めた後、24年4月より、湘南大磯病院へ病院長として赴任しました。

当院が立地する大磯は湘南発祥の地、海水浴発祥の地と言われ、初代首相の伊藤博文や、戦後の名宰相、吉田茂の別荘があった保養地です。当院5階からは水平線が弧を描くように太平洋が一望でき、心が落ち着きます。当院は1984年に東海大学医学部付属大磯病院として開設され、2023年3月に徳洲会へ事業継承されました。徳洲会の病院としてスタートした時の入院患者数は、わずか7人でしたが、現在は144床が稼働しています。常勤医は30人で、そのうち23人は東海大学より派遣、専門外来にも多くの医師を派遣いただいております。大学付属病院時代の医療の質を維持しつつ、徳洲会の経営方針を生かしていくつもりです。

病院新築移転へ基本設計中 他病院へ応援に行くのが夢

順調に患者数は増加していますが、赤字が続いていることが問題です。対策として、今年度から平塚・大磯・二宮地域の二次救急輪番に加わり、救急車やWalk inの救急患者さんが増加しました。また、小児科と婦人科の外来も開設し診療の幅を広げました。老朽化した病院建屋の建て替えも決まり、現在、基本設計中です。地域の要望で存続した病院ということを忘れず、住民の方々に愛される地域密着型病院を目指します。まだまだ全国の徳洲会病院にお世話にならなければならない状況ですが、早く自立して地域の方々に安心していただくこと、新病院を無事建築すること、さらにはグループの他病院へ応援に行くことが夢です。

夢の実現のため皆で頑張りましょう。

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