直言
Chokugen
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直言 ~
白部 多可史(しろべたかし)
皆野病院(埼玉県) 院長
2024年(令和6年)03月04日 月曜日 徳洲新聞 NO.1430
能登半島地震で幕を開けた2024年の元旦に、当院院長職を拝命いたしました。5年半振りの徳洲会復帰ですが、徳洲会病院ならではの雰囲気に身が引き締まる思いです。雰囲気というのは不思議なもので、同じ空気のはずなのに、そこで働いている人々によって、それぞれ独特の空気が醸し出されます。徳洲会の雰囲気は、創設者の徳田虎雄・名誉理事長が掲げた“生命だけは平等だ”の理念が、職員全体に浸透していることで醸し出されているのだと思います。何処とは言いませんが、救急外来に運ばれてきた患者さんが待たされている間、大量吐血した時に直ぐに診察するのではなく、他病院へ転搬送させた某市立病院を訪問した際に感じた「勤務時間内に来ない患者など診る義務はない」と言わんばかりの上から目線の雰囲気とは対照的です。
病気や怪我は時間を選んではくれません。誰も夜中に具合が悪くなることなど望んではいません。救急車を呼ぶ、救急外来を受診する──それは患者さんやご家族が発したSOS です。「助けてほしい」と頼られているのです。医療職を選んだ、医療職ではないけれど医療機関を仕事場として選んだ皆さんは、「困っている人を助けたい」と入職したはずです。ならば、救急患者さんというのは、人の役に立ちたいという皆さんの希望を実現できるチャンスですから、断るという選択肢はないでしょう。もちろん、ただ患者さんを断らなければ良いという訳ではなく、患者さんやご家族に心から喜んでいただけることが必要です。そのためには困っている患者さんやご家族に誠意をもって寄り添い、「本当に良くやってもらえた」と思っていただけることと、“最高の結果”を出せる実力を養っておくことが肝要です。つまり、徳洲会の理念の実行方法「医療技術・診療態度の向上にたえず努力する」をつねに実践することが求められるのです。
前回、徳洲会に勤務していた時に、成田富里徳洲会病院の立ち上げを院長として経験させていただきました。地元の熱い期待のなか、 開院した病院には初日から想定を遥かに超え救急車が殺到しました。十分なスタッフを擁していなかったため、院長業務の傍らというより、院長業務を放り出し週3~4回の日当直に加え、後期研修医と2人で年間350例を超える全身麻酔の外科手術を行う過酷な日々を過ごしました。「働き方改革」とは全く無縁の世界でした。その後、現院長をはじめとする職員や関係者の努力で、同院が目覚ましい成長を遂げたことは、本当に感慨深いものがあります。泥縄式の準備に明け暮れた開院当初に、現在の隆盛を予想することは、私にはできませんでした。徳田・名誉理事長にとっては想定内だったのかも知れませんが、想定を遥かに超える救急需要、つまり“天の時”、京成成田駅前という“地の利”、そして地域医療に真摯に向き合う職員の“人の和”が、現在の発展をもたらしたのだと思います。
昔話へと脱線しましたが、当院開設時、12万3,602人であった秩父医療圏の人口は、昨年12月には9万1,979人と3/4に減少し、さらに10年後には7万8,000人にまで低下すると予想されています。急速な過疎化が進む秩父の地で、成田での経験がそのまま生きるとは思いませんが、徳洲会が掲げる 24時間断らない救急医療が、生き残りの最大の鍵になることに変わりはないと思います。従来、秩父医療圏で二次救急を行っていた7病院のうち、すでに5病院は救急医療から撤退し、さらに1病院が離脱寸前という状況です。二次救急病院の減少を負担増と捉えて心配している当院職員もいると聞いていますが、これは逆にチャンスです。いつまでも市立病院に次ぐ地域の2番手に甘んじているのではなく、地域の1番手、いや唯一無二の存在になることが求められます。過疎化が進行する地域で生き残るためには、少なくとも地域のトップであることが必要だと思うからです。
幸い、新規開院であった成田富里病院と異なり、当院には20年を超える歴史と、初代院長以下、秩父に根を張った頼もしい仲間がいます。秩父地域の住民全員に徳洲会病院があって良かったと思っていただけるよう、全職員一丸となって前進したいと思います。
皆で頑張りましょう。