直言
Chokugen
Chokugen
直言 ~
田村 雅一(たむらまさかず)
野崎徳洲会病院(大阪府) 院長
2023年(令和5年)10月23日 月曜日 徳洲新聞 NO.1412
5月1日、当院にお越しになった東上震一理事長より、院長就任の辞令を賜り、誠に身が引き締まる思いでした。
私は1989年、大阪大学卒業ですが、入学前は「徳洲会」のことを詳しく知りませんでした。入学直後に書店で偶然、徳田虎雄先生(現・名誉理事長)の『生命だけは平等だ─わが徳洲会の戦い─』を手に取りました。大学の先輩、徳田先生の医師になるまでのご苦労と、強靱な信念に基づくその後の邁進に感銘を受けました。ですので、6年の夏休みに学友から「沖縄の徳洲会病院を見学しに行かないか」と誘われた際は、迷わず賛同しました。南部徳洲会病院に寝泊まりしながら、平安山英達院長(現・名誉院長)や金城浩副院長(故人)の診療、県立中部病院、中部徳洲会病院、さらには徳之島徳洲会病院も見学させていただきました。その際、徳田先生と空港でお会いでき、しっかり見学して勉強するよう激励されました。初対面の徳田先生は活気に満ち満ちておられる一方、我々を見つめる目は実に優しいもので、そのオーラに私は直立不動でした。多くの職員の方が慕い、グループのために懸命に奮闘するのが理解できる気がしました。11泊12日という長い見学ツアーでしたが、大変充実して楽しいものでした。30数年前の学生は、随分のんびりしていたと我ながら感じます。
当時、私は脳神経外科へ進むことをほぼ決めていました。専門性の高い比較的新しい診療科であり、大学病院を含めた大病院での研修が早道と考え、徳洲会には入らず大阪大学脳神経外科に入局しました。手術を含めた臨床以外に研究活動、海外留学もしてみたいなどと淡い期待を抱いていました。大学と関連病院での研修、数年後には基礎研究も開始し、大学院では愛知県の生理学研究所で3年間過ごし学位を取得しました。脳外科専門医試験もクリアし、翌年から米国ピッツバーグ大学で2年間の研究留学を経験しました。
帰国後、赴任した大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)で、中川秀光・主任部長(現・野崎徳洲会病院総長)から「履歴書で見る君の経歴は申し分ない。しかし脳外科医としての力量は、まだまだ未熟の言わばブランド脳外科医である。ここで臨床を一から教えますので、しっかり頑張りなさい」と言われました。その頃の私には、臨床技量が絶対的に不足していたのです。
中川先生の下で1,000例以上の難手術を経験し6年が経過する頃、私以外の3人の大学派遣医員は何度か入れ替わっていました。大学医局からは私にも転勤の打診がありましたが、もっと中川先生の下で勉強したいと固辞し続けました。そうしたある日、中川先生が野崎病院へ移られることとなりました。残った私は、大学から赴任の新部長の下で働きましたが、得るものが乏しく別の病院へ移ることとなり、さらに数年後、再び中川先生の下で働くべく2011年8月に野崎病院へ赴任しました。見学ツアーから23年後、ようやく徳洲会に就職できた次第です。
当院は1975年10月にグループ2番目の病院として大阪府大東市に開設以降、地域の中核病院として機能してきました。とくに2012年6月に中川先生が院長就任後は、年間約6,000台の救急搬送を受け入れ、近年では診療科も増加し、手術件数は年間2千数百件と年々増えています。さらには中川院長の決断の下、新型コロナ診療に初期から率先して取り組み、大阪府内の民間病院としては傑出した役割を果たしました。今後、臨床面では各診療科の強化、とくに、がん診療の拡充を、また学術面では併設の研究所機能の発展も含めた学術活動の充実を目指します。研修医を含めた優秀な若手医師の多様な選択肢を受け入れることができる「より懐の深い病院」になるべく、中川総長以下、職員一丸となって努力していく所存です。引き続き、東上理事長はじめグループ幹部の先生方、諸先輩の方々のご指導を賜りたく存じます。
大阪大学の前身とされる江戸時代の蘭医学塾「適塾」を開いた緒方洪庵先生の言葉、「医師とは、とびきりの親切者以外はなるべき仕事ではない」は、数世紀を経て、徳田先生のお考え、グループの理念に通じていると、肝に銘じています。
皆で頑張りましょう。