
直言
Chokugen

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直言 ~
江原 宗平(えばらそうへい)
湘南藤沢徳洲会病院(神奈川県) 院長 兼 脊椎センター・脊柱側彎症センター長
2023年(令和5年)07月17日 月曜日 徳洲新聞 NO.1398
ベン・ケーシー(米国の医療ドラマの主人公)ならと思って、大阪大学医学部へ行き卒業後、整形外科教室へ入りました。学園紛争の余波で大学院ボイコット、インターン廃止の時代でした。大学で1年研修、翌年、星ヶ丘厚生年金病院の関西最大の脊髄損傷病棟で1年勤務。翌年、国立呉病院整形外科で1年勤務。同院は元海軍病院で中国地方のがんセンターであり、年間全身麻酔手術900例の外科で、助手か麻酔に駆り出されました。帰阪し市民病院で1年勤務した頃、阪大整形外科の医局長から「大学へ戻って脊椎外科を勉強しろ」と。当時、脊椎外科は教授担当クリニックでした。「市中病院で大きな手術をたくさんやりたい」と言って叱られました。
その後、大阪府立病院で多くの人工関節手術を経験、三次救急の中核病院でしたので大外傷の手術を嫌になるほど行いました。鉄砲で撃たれ脊椎に弾が入ってという症例もありました。3年勤めた後、教授から「遊びほうけてないで勉強しなさい」と言われ、阪大で脊椎の勉強に戻りました。そこから毎日朝6時半に家を出て、夜11時半に帰宅する暮らしになりました。教授はじつに透徹した頭脳の持ち主でした。しかし、手術は強烈で、がんの脊椎転移の人工椎体置換、脊索腫や巨細胞腫の骨盤腫瘍切除と再建、小児の重度脊柱変形の前方後方手術など、朝8時に手術場に入って深夜2時3時に出てくる。その日は普通に勤務も多々ありました。日曜日はしばしば再手術でした。その合間に実験と論文作成。
そうした生活を7年間続けた後、米国コロンビア大学整形外科基礎研究室で、ポストドクトラルフェローとして給料をいただいて働きました。手術がないのが嬉しかったです。通勤の大きなバスの中で、「今日もラボへ行ってコーヒー飲んで実験だ。手術はないぞ」と一人で笑っていました。異文化での暮らしは強烈でした。あの当時、“ジャパンアズナンバーワン”の時代でしたが、ニューヨークで米国は底力が違うと感じました。2年後、「帰国しろ」と言われ、泣く泣く帰りました。私の仕えた教授は、大阪厚生年金病院の院長に就任され、教授選が始まり、私は講師・医局長になりました。助教授が信州大学教授になり「脊椎手術ができて、実験もできるやつが欲しい」とのことで、3年間の約束で信州大へ派遣。3年で阪大へ戻って教授選に出馬の約束でした。しかし、阪大で予期せぬ教授選が再度行われ、1年後輩が教授に就任し帰れなくなりました。その後、信大で助教授になり、教授選で最終選考での負けが2~3回となって「さて、どうしよう」という時に、徳田虎雄理事長(現・名誉理事長)から「山猿、娑婆へ下りてこい。うちで脊椎センターをやれ」との電話をいただきました。宮﨑仁宏・医師人事部長(当時)に連れられ、あちこち回りました。
そして2004年に当院の前身である茅ヶ崎徳洲会病院で、脊椎センター・脊柱側彎症センターを開始。毎日手術し、これまでに5,300例以上の脊椎手術、うち側彎症手術1,400例以上。側彎症手術は関東では慶應義塾大学病院に次いで2位、全国では5位くらいです。ハイブリッド脊椎手術は世界で初めて施行、ロボット脊椎手術は日本で初めて実施しました。ともに症例数は世界トップです。側彎症の内視鏡下前方矯正固定術は、私が考案した世界で初めてのアイデアと試みでした。患者さんは全国から来られます。今後も、もっと多くの側彎症手術をし、もっと新しい側彎症手術を創り出したいです。
ただ、時折振り返って「一体何をやってきたのか」と思うこともあります。もっとうまく手術ができないか、もっと新しいことを、もっと凄いことを思いつかないか。もっと上を目指そうと思ってやってきたのか。徳洲会医療経営戦略セミナーで東上震一理事長が、“アニマルスピリット”と言われました。それこそ徳田・名誉理事長ら先達が実践した常人とは桁外れの質量なのだと思います。そして今、私たち日本人は、このスピリットを忘れてしまったのかもしれません。最後は人間のスピリットとハングリー精神と、ど根性でしょう。今年4月、東上理事長から院長を拝命しました。今、ヘッドウインドの中、スピリットを燃やし責務を果たす所存です。皆で頑張りましょう。