徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

一般社団法人徳洲会 本部長
石川 一郎(いしかわいちろう)

直言 生命 いのち だけは平等だ~

石川 一郎(いしかわいちろう)

一般社団法人徳洲会 本部長

2023年(令和5年)03月06日 月曜日 徳洲新聞 NO.1379

徳田病院を開設してから今年で丸50年
病院・施設それぞれに人の思いと歴史
徳洲会が目指す社会運動は果てしなき旅路

徳洲会グループは、1973年に徳田虎雄理事長(現・名誉理事長)が34歳で大阪府松原市に徳田病院を開設して以来、50年を迎えました。

私は時々、「なぜ徳洲会に入ったのですか?」と聞かれます。短く答える時は「徳田虎雄に惚れたから」、しっかり答える時は「徳田理事長の話を聞いて、この人と一緒に生きたら、そしてこの人が創った組織で働いたら、自分の人生を生ききれると感じたからです」と答えています。そんな思いで79年に徳洲会東京本部に入職。いろいろ指導してくれた上司が何カ月かで退職してしまった時には、徳洲会が社会にとって必要な存在である限り存続していくであろうし、徳田理事長が私利私欲なくやっている限りは残って頑張ろうと覚悟しました。そして入職から44年経った今思うことは、ここまで続けてきたのは徳田虎雄という人物の存在だけでなく、徳洲会の理念・哲学である“生命だけは平等だ”や“いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会を目指して”という社会運動に共感し、そこにやりがいをもってきたこと、と同時に、苦労を分かち合う仲間が全国にいる徳洲会が好きだったからということです。

最近、東上震一理事長が「私たちは徳洲会の理念・哲学に帰属して」という言葉を使いますが、このフレーズは徳洲会組織のありようの根幹を為すものだと思います。私も結局は徳洲会の理念・哲学に帰属して働くことの壮快感に浸っていたのだと思います。

現在、東上理事長が徳田・名誉理事長が撒いた種を実らせるべく、忙しく走り回っていますが、私たち徳洲会の目指す社会運動は果てしなき旅路かもしれません(ここで中島みゆきの『ヘッドライト・テールライト』を思い起こします)。

多くの患者さんを救うために あらゆる手段尽くし病院建設

徳田・名誉理事長は、病院をつくりさえすれば多くの患者さんを救えるとの思いで、あらゆる手段を尽くして病院を建設しようと、つねに考えていました。徳洲会の病院開設の歴史は医師会、地方自治体、厚生労働省との闘いの歴史でもありました。もともとは医療法の要件さえ満たせば、病院はどこでも開設できましたが、86年に地域医療計画が施行されてからは、病床不足地域にしか病院を開設できなくなりました。病床不足地域で徳洲会が病院開設の準備を進めていることを医師会や行政が察知すると、急遽医師会病院などに病床を与え、徳洲会には十分な病床数を与えないようにしていました。開設の申請を受理してくれない県もあり、富山県や鹿児島県などで行政訴訟を起こしたこともありました。

また、自己資本比率が20%に満たない医療法人は病院開設ができないという法律がつくられた時に個人開設という手段を用いたのが、湘南鎌倉総合病院、大隅鹿屋病院、庄内余目病院、千葉西総合病院、高砂西部病院など徳洲会名が付いていない病院です。羽生総合病院や屋久島徳洲会病院、山北徳洲会病院、山形徳洲会病院など、署名運動などを起こして開設に持ち込んだ例もあります。このようにそれぞれの病院や施設には、かかわった人たちの思いを含め、それぞれの歴史が刻まれています。それを思うと、徳洲会の50年の歴史はとても一冊の本で収まるものではありません。

現在と今後支える今の職員が 日々生き生きと働ける組織に

徳田・名誉理事長の執念や地域住民の強い思いでできた病院は「地域のもの」と私が言った時に、安富祖久明・前理事長(現・最高顧問)から「病院は所有形態よりも存在形態を問うべきだから社会的存在と言うべきだ」と言われました。なるほどと思い、その後は「病院は社会的存在」と言うようにしています。いまや名実共に社会的存在となった徳洲会の病院や施設を、地域住民のためにフル活用(救急を断らない、病床利用率を高めるとか)していくことが私たちの使命だと思います。

また、このコロナ禍でつくづく感じたのは、厳しい医療・介護の環境下で徳洲会の理念・哲学を実践し、患者さんや利用者さんのために頑張って働いてきたのは「今の職員」ということでした。過去も大事ですが、現在とこれからの徳洲会を支えていくのは今いる職員だと思う時、その大事な仲間が日々、生き生きと働ける組織にしていかなければならないと、あらためて思っています。

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