徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

医療法人徳洲会 副理事長
八尾徳洲会総合病院(大阪府) 総長
福田 貢(ふくだこう)

直言 生命 いのち だけは平等だ~

福田 貢(ふくだこう)

医療法人徳洲会 副理事長 八尾徳洲会総合病院(大阪府) 総長

2022年(令和4年)08月29日 月曜日 徳洲新聞 NO.1353

病める人々と続く者たちの未来のため
他者への敬意と感謝を忘れることなく
初代理事長の理想に思い馳せ良質な社会貢献を

午前6時前、日勤と夜勤看護スタッフが自らの抗原検査目的で早朝出勤――コロナ禍の朝、見慣れた光景になりました。2020年2月、湘南鎌倉総合病院が最初のCOVID-19症例を受け入れ、その後、北海道から沖縄県に至る多くの徳洲会病院が入院患者さんを受け入れました。得体の知れない恐怖心が先行するなか、果敢に治療に挑んだ同胞たちの医療への忠誠心を目の当たりにし、“徳洲会は強い組織になる”と感じました。

「忠誠心とは仕事への誠実さ 医者なら患者さんへの愛情」

徳洲会は来年、設立50周年を迎えます。折しも今年6月、初の選挙規定に基づき、東上震一・第4代理事長が選出されました。1981年、八尾徳洲会病院に研修医として入職した私にも40数年の月日が経ちました。同期の研修医は7人。1年次の研修期間中4カ月間の外科研修は厳しく、4人の同僚が出血性胃潰瘍で休職。外科を回れば血を吐くと囁かれていました。その煽りで本来3日に1度の当直が2日に1度となり、30代半ばの米国帰りの循環器内科医であった院長も、私たちと共に2日に1回の当直業務に。激務でもあり充実した日々でもありましたが、1年次研修終了時には同僚5人が病院を去っていました。

当時は新病院の開設が続き、私も他院応援派遣期間にあったある日、自院院長の突然の解任。政治に奔る徳田虎雄理事長(現・名誉理事長)解任の試みに失敗し、返り討ちにされたとのことでした。医療に対する高い理想を語り、当直の現場を共にした院長が「患者さんのことは頼む」と電話のみ。創生期の出来事とはいえ突然の院長解任と、続く応援の要請は、既存の病院の充実もできないまま粗悪な医療の拡散を是認するかの如き姿勢に映り、素直に受け入れることが困難でした。多くの救急症例を経験し救命処置を覚えた頃、組織の有様に対する諦観と自身のアカデミズム欠如の故に悶々とし、この病院を研修の場として選んだことを後悔。挙句、84年春に退職願を提出しました。

最後になるはずの日曜当直当日の朝、徳田理事長が突然来訪し、「福田、お前何考えとるんや」と。政治を医療現場に持ち込むことへの不信、粗悪な医療を提供してしまうのではとの不安、研修医を労働力として位置付けることへの不満など、思いの限りをぶつけました。

理事長は「君には忠誠心がない。忠誠心とは自ら選んだ仕事への誠実さ、医者であれば患者さんへの愛情のことだ。いつの時代でも人間として欠かしてはならない心のこと、それを欠けば自分を失う」と。決して目を逸らすことなく4時間以上続いた理事長との初発バトルの締めがこれで、気が付けば絡めとられていました。

時を経て、鹿児島県の奄美での衆院選を巡ってのこと。徳田理事長の強烈な正義感と信念に惹かれ支援する人々、組織内に医療と政治が混在することを問題として捉え反対する人々、この二者の間でバトルがありました。理事長に対し、苦労知らずの雄弁な人々が、その狭量さの故に陰口を叩いているかのようで、育ちや生きざまの違いに由来する決して一致を見ない言葉の応酬は、耳に馴染むものではありませんでした。その情景が情けなく、徳洲会は決して強い組織にはなれないと感じた時もありました。

先輩方の弛まぬ献身と現場の誠実な努力と多く人々の支援

2001年、徳田理事長は長男を理事幹部に指名。02年、ALS(筋萎縮性側索硬化症)発症と、その後の創業家の経営への参画など、続く10年間は混乱する出来事が多々ありました。12年初秋のとある日、東上先生と私は湘南鎌倉病院の徳田理事長室に召集されました。「今後の運営についてどう思うか」との文字盤を介しての理事長の問いに、「家長をお選びになるか、理事長を継続していただくか」と私。「理事長を辞めていただきたい。後は私たちがやります」と東上先生。解雇を覚悟しながら翌未明に帰阪しました。

その後、徳洲会事件を経て今に至ります。先輩諸氏の弛まぬ献身と現場の誠実な日々の努力、多くの人々の支援の結果です。事件の渦中にあって皆で守ろうとしたのは、私たちの医療現場そのものであったのではないでしょうか。初代理事長の理想に思いを馳せ、病める人々と、続く者たちの未来のために、他者への敬意と感謝を忘れることなく、良質な社会貢献ができますよう、皆で頑張りましょう。

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