徳洲新聞ダイジェスト

Tokushukai medical group newspaper digest

2024年(令和6年)09月10日 火曜日 徳洲新聞 NO.2024Paris 1面

徳田虎雄・名誉理事長
体操ニッポン復活に心血
徳洲会体操クラブの原点

日本体操協会会長も務めるなど、体操界の発展に尽力した徳田・名誉理事長

徳田虎雄・名誉理事長は日本の医療だけでなく、体操界のレベル向上にも心血を注いだ。相次ぐ病院新設などで多忙を極めていた1996年、アトランタ五輪直後に徳田・名誉理事長(当時は理事長)は日本体操協会会長に就任。当時、日本の体操界は低迷期にあった。

それまで日本は世界のトップクラスに君臨していた。五輪では52年のヘルシンキ大会から10大会連続でメダルを獲得(日本が不参加だった80年のモスクワ大会は除く)。とくに男子は60~70年代に五輪と世界体操競技選手権大会の二大大会で、それぞれ団体総合5連覇(通算10連勝)を果たすなど、無類の強さを示し、“日本のお家芸”と認識されるようになった。

ところが、80年代に入ると強さに陰りが見え始め、ソウル五輪(88年)、バルセロナ五輪(92年)では金メダルはゼロ。その後のアトランタ五輪(96年)では、メダルそのものが獲れず、強さの象徴だった男子団体総合は10位と、日本は同カテゴリーで過去最低の順位を記録した。

こうしたなか、徳田・名誉理事長は会長就任後、旧来の組織体制を刷新するなど協会改革を断行、強い思いで“体操ニッポン”の復活を目指した。また、会長就任から2年後の98年4月には徳洲会体操クラブを創部。朝礼に同クラブの選手を出席させるなど、心身ともに成熟した一流の人材育成に取り組んだ。2001年に会長職を辞したが、その後も体操界を支え続けた。

こうした努力が04年のアテネ五輪で実を結んだ。同クラブの米田功と水鳥寿思が日本代表に選ばれ、男子団体総合で28年ぶりに栄冠をつかんだ。徳田・名誉理事長はアテネに向かう前の両選手に「金メダルを掴むつもりで鉄棒を掴め」という言葉を贈り、両選手が見事に応えた。

アテネ五輪後、徳田・名誉理事長は「『驕れる者は久しからず』。過去の栄光に誇りを持つとともに、絶えず時代の流れに合わせ、先取りした体制をつくり続ける努力をしなければなりません」(小紙431号「直言」)と綴っている。水鳥は現役引退後、リオ五輪(16年)からパリ五輪(24年)まで3大会で日本代表監督を務め、男子の団体総合で金メダル2個、銀メダル1個、個人総合で3連覇といった結果を導き出した。

米田は13年に監督として徳洲会体操クラブに戻り、2軍制の導入やジュニア世代への一貫支援など、それまでの体制や方法を改革。低迷していた同クラブを再建し、日本代表に所属選手を送り出した。今年11月には最新の技術・設備を導入した同クラブの新たな活動拠点「徳洲会ジムナスティクスアリーナ」が誕生、さらなる飛躍を後押しする。

“体操ニッポンの復活”に尽力した徳田・名誉理事長。その思いは今なお健在だ。

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