直言
Chokugen
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直言 ~
田村 幸大(たむらゆきひろ)
徳洲会グループ研修委員会 委員長
大隅鹿屋病院(鹿児島県) 副院長
2021年(令和3年)6月7日 月曜日 徳洲新聞 NO.1290
158人の初期研修医の皆さん、ようこそ徳洲会グループへ。例年であれば5月末に一堂に会し、医療安全、緩和ケア、虐待への対応、災害医療など多岐にわたる内容を、ディスカッションを交えながら学ぶオリエンテーションを行っています。昨年に続き、集合研修ができる状況ではないため、徳洲会グループ研修委員会委員長として、皆さんへメッセージを送ります。
皆さんが研修している病院は、設備が整い夜間でも多くの緊急検査・手術が可能です。新型コロナ流行の初期から発熱外来の設置、新型コロナ症例の入院受け入れに取り組み、それぞれの地域で大きな役割を果たしています。しかし、コロナ渦の非常時に、このような受け入れ体制を構築することは、じつは簡単なことではありません。どのような取り組みによって地域から信頼され、地域に貢献できる医療体制をつくってきたのか、一度考えてみてほしいのです。
話は私が医師になって3年目の2000年まで戻ります。2年間の初期研修を大隅鹿屋病院で修了し、3年目は福岡徳洲会病院で総合内科の研修をしました。当時の同院病床数は600床、年間の救急搬入件数は約8000件と、グループ病院のなかでも最大級でした。1年間という短い期間でしたが、多くの症例経験を積み、内科医としての基礎をつくることができました。しかし、1979年のオープン時は150床からのスタートで、医師も少なく、たまに来る救急車は酔っ払いなど他院で断られた患者さんが主だったそうです。なぜ、そこから徳洲会グループを代表する病院のひとつとなったのか、理由を知りたいと、かねがね思っていましたが、その答えを思いがけない出来事で知ることとなりました。
その日も救急外来(ER)から内科入院の依頼がありました。多くの紹介症例、救急搬送症例に対応する日々で、忙しさのあまり「また入院か」と、正直なところ面倒に思いながらERに向かいました。カルテを開くと、開院当初から受診されている症例で非常に分厚いカルテでした。当時は紙のカルテで、長く通院されている方はどんどん厚くなっていく時代でした。どのような経過をたどっている症例かと、前のほうへめくっていき、とうとう20年近く前のページまで来ました。そこで一通の返書が目に入りました。それは当時、副院長の貞島博通(さだしまひろみち)先生(現・福岡徳洲会病院総長)が医師3年目の時に書いたものでした。他院からの紹介に対しA4用紙2枚にわたり非常に詳細に検査結果、診断、治療の流れが記載されていました。患者さんにもスタッフにも、つねに優しく接している貞島先生の人柄が行間ににじみ出ていました。ここまでであれば「貞島先生らしい丁寧な返書だな」と思って終わりでしたが、次の瞬間、身震いを覚えました。裏面に「熱が続いています。よろしく」とだけ書かれた紹介元の先生の名刺が貼られていたからです。電話で詳細な経過を伝えていたかもしれませんが、私なら「名刺一枚で紹介してくるなんて失礼だ」と立腹したことでしょう。
しかし、貞島先生は何年か後に読まれても、胸を張ることができる返書を記載していました。実際に20年の時を経て医師3年目の私が読むこととなりました。その返書は福岡病院がここまで大きくなり、地域から信頼される病院となった理由を私に教えてくれました。こんな地道な努力の積み重ねが、地域からの信頼に繋(つな)がり病院を発展させる大きな力になったのだと思わずにはいられませんでした。診療情報提供書や返書は患者さんの情報だけでなく、記載した医師の診療能力や人柄までをも伝えてしまうものだったのです。
それ以来、つねに全力で返書を書くようになりました。2003年に大隅鹿屋病院唯一の内科医として戻りましたが、当時は紹介も少なく、寂しい状況でした。その後、徐々に内科の仲間が増え、20年には内科宛に年間1400件の紹介をいただきました。どのような状況であっても全力で返書を書くことの大切さを教えていただいた貞島先生の返書のお陰と言えます。コロナ渦で対面の機会が減っている今だからこそ、信頼を得る小さな努力の積み重ねが強い病院をつくる礎となります。その努力を研修のスタートから始めてください。皆で頑張りましょう。