直言
Chokugen
Chokugen
直言 ~
小林 司(こばやしつかさ)
大日徳洲会病院院長(千葉県)
2019年(令和元年)6月17日 月曜日 徳洲新聞 NO.1189
大日(だいにち)徳洲会病院の院長として4月1日に着任しました。当院は1983年12月に高本謹有(たかもときんゆう)先生が創立された病院を、徳洲会が昨年6月に引き継ぎ、現在に至ります。
井上和人(かずと)前院長(現・鎌ケ谷総合病院院長)のあとを引き継いでの就任です。私は高齢の母の介護もあり、一時期、徳洲会を離れておりましたが、お声がけいただき感謝しています。
地域の方々、徳洲会の仲間に、この場をお借りし、ご挨拶いたします。当院は徳洲会のバックアップを受け、2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、損壊したエレベーターが修復され、当院本館が利用可能となり、今年5月1日に療養病棟の開棟が実現しました。
私は1954年に東京都で生まれました。父は福岡県、母と母方の親戚は、それぞれ広島県、静岡県の出身です。医師の道を志したのは、困っている方の助けに少しでもなりたいという気持ちからでした。家庭の事情で引っ越しが多く、山口大学を卒業後、徳洲会に入職してからも、引っ越し続きでした。沖縄県の南部徳洲会病院で研修後、福岡徳洲会病院、名古屋徳洲会総合病院で救急医療などに携わり、外科や整形外科の診療に従事。鹿児島県の奄美群島では、加計呂麻徳洲会診療所、沖永良部徳洲会病院、喜界徳洲会病院、笠利病院に勤務。加計呂麻診療所時代には、急変したがん患者さんを自宅から診療所に搬送するため、時化(しけ)で大荒れの海に船で乗り出し、転覆の危険にさらされたこともありました。
離島・へき地医療の充実に心血を注ぐ徳洲会の創設者、徳田虎雄・前理事長の強烈な思いにも、直に触れました。私は沖永良部病院の初代院長を務めていましたが、徳田・前理事長とともに軽飛行機「徳洲号」で徳之島に向かった時のことです。島の上空に厚い雲が垂れ込め、滑走路がまったく見えませんでした。機長は「引き返しましょうか」と言いましたが、徳田・前理事長は「構わん、行け」とひと言。この時ばかりは、もうだめかと思いました。
その後、開発途上国での医療支援に興味をもち、タイやフィリピン、アフガニスタン、ニカラグアなど数カ国と、日本との間を行き来しながら、微力ではありますが、ボランティア活動に参加しました。思い出深いのは、タイのメソートというミャンマー国境近くの町で、ミャンマー人の難民の方々の診療にあたったことです。そこには欧米人の医師もおり、彼らとの診療方法の違いにとまどいながらも協力し合って、診療に精を出しました。海外ボランティア参加に際し、徳洲会から心電図や内視鏡、ポータブルエコーなど医療機器を無償提供いただいたことに、心より感謝申し上げます。
海外と日本を行き来している間、日本では新潟県の山北徳洲会病院や山形県の新庄徳洲会病院、庄内余目病院、千葉県の館山病院に出入りしました。また、新潟県の限界集落で、診療所長なども体験しました。総合診療を余儀なくされる環境で、専門医と連携しつつ診療に積極的にあたりました。
大日病院の常勤医は私を含め3人。総合病院のように専門医がそろった病院ではありませんが、ご高齢で、さまざまな疾患を抱え、侵襲の強い検査や治療を受けることができず、遠方の専門病院とも疎遠となられた患者さんに、真摯(しんし)な対応を心がけていきたいと考えています。
近年、当地域では戦乱から逃れてきたアフガニスタンの移民の方々1000人余りが中古自動車売買、資源リサイクルなどの仕事に従事し、地域経済の一翼を担っているとのことです。01年9月11日に米国ニューヨーク市で世界貿易センタービルなどが襲われた同時多発テロ事件の数カ月後。私は京都のNGO(非政府組織)の一員として、アフガニスタン北西部、イランとの国境近くにある州都ヘラートのゴルラン地域の診療所再建に出向いたことがあり、親近感を感じております。
私は、地域と病院は一心同体と考えています。先代の高本先生、高本先生を慕いながら通ってくださる患者さん、病院存続に尽力いただいた地域の皆さん、徳洲会の仲間、当院職員の皆さんに御礼申し上げます。早く地域になじむよう、職員一同、今後も努力してまいります。
皆で頑張りましょう。