直言
Chokugen
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直言 ~
鈴木 隆夫(すずきたかお)
一般社団法人徳洲会理事長(東京都、大阪府)
2018年(平成30年)12月3日 月曜日 徳洲新聞 NO.1162
「私があなたの翼に平和という字を書けば、あなたは世界に羽ばたく」
佐々木禎子(さだこ)さんというひとりの少女の物語と結び付いて、折り鶴は平和の象徴となりました。1945年8月6日、広島に原爆が投下された時、2歳だった禎子は、その後、強く勇敢で活発な少女に育ちました。11歳となっていた55年、リレーの選手として練習している時、めまいに襲われ倒れました。禎子は「原爆症」である白血病と診断されました。
親友から「鶴を千羽折ると願いがかなう」という言い伝えを聞いた彼女は、神様が願いを聞き入れ、また走れるようになることを願い、鶴を折り始めました。同年10月25日、12歳の若さで死を迎えるまで千羽以上の鶴を折り続けました。
禎子のクラスメートだった小牧律子(こまきりつこ)さんは、米国テキサス州立大学MDアンダーソンがんセンターの放射線腫瘍科医師になりました。彼女は禎子から影響を受けて医師となり、放射線腫瘍学に人生を捧げたのです。
すべてのがん患者さん、そのご家族、そして彼らを思い癒やし慰めようとするすべての人々が、このような物語を秘めた折り鶴から、生きる勇気を得んことを祈ります。禎子が千羽の折り鶴から、そうしたように。
60年以上にわたって禎子の遺志を直接的に継承してきた小牧先生の感動的な逸話を知ったのは、同がんセンターの待合ロビーに飾られた石碑を見た時でした。冒頭に記した言葉は、そこに刻まれていた一節です。
小牧先生は、禎子の同級生でしたが、友人の死を無駄にしたくないと、医師になることを志し、広島大学医学部に進学。「放射線は多くの人々の命を奪ったが、使い方を変えれば命を救うこともできる」と、放射線医療を学ぶために渡米し、世界でも最高と言われた同がんセンターで、米国屈指の放射線腫瘍医になられました。教授として陽子線など放射線を用い、がん細胞を死滅させる研究をする傍ら、米国のみならず日本からの留学生も育て、数多くの放射線腫瘍医を世界に輩出しました。
湘南鎌倉総合病院は、がんの包括的治療を行う先端医療センターの設立準備を進めています。センター長に就任した井上登美夫(とみお)先生もまた小牧先生に教えを受けた医師のひとりです。彼は帰国後、横浜市立大学の教授、病院長そして医学部長を歴任、その間、多くの放射線科医を育成し、また湘南鎌倉病院との連携大学院を実現させました。
湘南鎌倉病院が開院間もない頃、小牧先生が、今は亡きご主人であり、放射線治療で世界的に有名なジェームス・コックス教授とともに来院されたことがありました。その時、徳洲会の若い医師に世界最先端のがん治療を学びに来させないかと、お誘いを受けました。しかし当時は、まだ人員的にも財政的にも困難な時代で、ひたすら救急医療や、がん以外の診療に尽力する毎日でした。
同がんセンターの石碑に刻まれた物語を見た時、見えない糸が小牧先生の足跡をたどり、再び徳洲会と結び付く縁を与えてくれたと感じました。井上先生とともに研究を重ねたチームのメンバーが、それぞれ教授となり、その後輩たちが私たちを温かく迎え、徳洲会に対し再び、がん医療の学びの門戸を開いてくださったのです。
徳洲会の理念は、創設者の徳田虎雄・前理事長が9歳の時、故郷の離島である徳之島で、夜中に医者に診てもらえず、弟を亡くした原体験に基づいています。「いつでも、どこでも、誰でもが、最善の医療を受けられる社会の実現」を目指し、徳洲会は成長してきたのです。
大切な人の死は大きな喪失だけでなく、その悲しみを原動力に新しい未来をつくる力をもっていることを学びました。生涯を通じ夢をあきらめない人たちが、新しい時代をつくるのです。
まったく縁のなかったそれぞれの人生が、「患者さんのために何ができるか」という糸で重なり、絡み合い、太い絆となって未来を紡いでいくことを実感しました。夢に共感した仲間たちとの絆が、次の時代の大きな夢につながっていくのです。
どんなことがあっても徳洲会は屈しません。これからも医療という手段を通じ、世界に希望の灯をともす集団であり続けたい。皆で頑張りましょう。