藤田 安彦(徳之島徳洲会病院院長)

徳洲新聞2014年(平成26年)11/3 月曜日 NO.953

故郷・徳之島で医療に従事する幸せ 多くの病院での経験が財産になった 徳之島徳洲会病院は私たちグループの象徴

徳之島徳洲会病院(鹿児島県)は徳田虎雄・前理事長が全身全霊を込め開設した病院で、徳洲会の象徴的な病院です。開院以来、歴代院長、職員、住民、応援医師、行政の方々の血の滲(にじ)むような努力と愛情に支えられてきました。

1985年、私は島根医科大学(現島根大学医学部)を卒業。徳之島生まれのため開設当時をよく覚えています。徳洲会にはこれほど熱くなれる人たちがいるのを目の当たりにし、驚愕(きょうがく)したからです。前理事長の勇猛果敢な性格と情熱的な信念に畏敬(いけい)の念を覚え、頭を揺さぶられるほどの衝撃を受けました。また職員たちが「生命だけは平等だ」の哲学実践と「24時間・年中無休」、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」を目指す崇高な使命感に燃えていたからです。

2003年12月、前理事長に「故郷に錦を飾れば親も喜ぶだろう」と言われ「数年待ってください」と返事しました。それから2年後の7月に徳洲会入職が決まり、05年9月オープンの東京西徳洲会病院へ。

同院では当直や内科外来で診療をする機会が多々あり、東京での“たらい回し”の実態や夜間救急を受ける施設が少ないこと、独居老人が多いこと、精神疾患の救急を受け入れる施設探しや専門病院への紹介に大変苦労したことが、私の大きな財産になりました。放射線科の専門医修練機関取得に尽力しましたが、10年10月に喜界(きかい)徳洲会病院に赴任。

喜界島は離島医療の厳しさ学ばせてくれた教師的存在

喜界島の単身赴任生活は、私に離島医療の厳しさを教えてくれた教師のような存在ですが、今年7月、徳之島病院院長にとの話があり、二つ返事で受けました。理由は①徳之島での挙式時に地元の方にいつか故郷で恩返しをと挨拶した、②前理事長が命懸けでつくった徳洲会に対する徳之島人の誇りと〝 島(しま)んちゅ〟が頑張らないで誰が島の医療を守るやの気概からです。幸い同院には優秀な医局員が多く、朝7時から病棟回診。私と内科医、産婦人科医各2人、脳外科医、外科応援医師各1人、これに研修医4人を加えた体制で、常勤医以外はグループ内外を問わず多くの医師の応援に支えられています。

赴任して間もなく、外来に80歳代の女性が来院。腹部大動脈瘤(りゅう)が7.6㎝と大きく、瘤破裂の危険性を伝えました。当初、本人は高齢であり、治療を望まれませんでしたが、開腹せず経皮的な手技で血管内ステント留置ができると説明すると翌日、大阪の病院を紹介してほしいとの申し出がありました。すぐに吹田徳洲会病院の金香充範(かねこみつのり)院長に電話し、速やかに入院、治療を実施。未破裂脳動脈瘤も見つかり、クリッピング手術も施行、無事に退院されました。

10月には妊娠21週切迫流産の可能性がある患者さんが来院。産婦人科の新納(にいろ)直久部長が妊娠22週の早産では胎児の救命が困難であることをご夫婦に説明したところ、できるだけのことをしてほしいとの希望があり母体搬送することに。受け入れ先は鹿児島市立病院総合周産期母子医療センター。新生児科の茨聡(いばらさとし)部長と平川英司医員が県にかけ合って、防災ヘリに同乗して来島。すぐに搬送し帝王切開、母子ともに助けることができました。助けたくても助けられない場面に遭遇した時、医師は非常なもどかしさと、自責の念に捉われます。20%でも救える可能性があれば、絶対に諦めない心が必要で、「生命だけは平等だ」の原点に立ち返り、患者さんの視点から行動すべきであるとの示唆(しさ)を受けた出来事でした。

検視業務に協力し死亡原因究明の貢献に対して感謝状

10月23日、徳之島警察署で奄美警察署長から感謝状をいただきました。喜界島在任中、検視業務に協力し死亡原因究明に対する貢献が評価されたからです。現在、死因を調べる際にはAi(死亡時画像診断)を行うことで、究明に寄与することが多くなりました。筑波メディカルセンター病院放射線科の塩谷清司(しおたにせいじ)・診療科長、作家の海堂尊(たける)氏、Ai学会の山本正二(せいじ)前理事長らによって、社会に広く認知されるようになってきました。

現在、全国の警察では死因究明のために医療施設のCT(コンピュータ断層撮影装置)を利用する機会が増えています。院内の医療事故・安全管理のうえでも、Aiは大事であると捉えられてきています。

経営の神様・松下幸之助氏に「成功するまで続ければ、失敗はすべての成功への過程のいい経験になる」との言葉があります。決して諦めない心で、皆で頑張りましょう。