浦元 智司(喜界徳洲会病院院長)

徳洲新聞2014年(平成26年)10/13 月曜日 NO.950

島で最後の1人まで踏みとどまる 愛郷とは目前の人を愛する気持ち 院長の役割は職員に存在意義を伝えること

9月1日より喜界(きかい)徳洲会病院院長に着任しました浦元智司(うらもとさとし)と申します。

私は神戸徳洲会病院で約14年間、脳神経外科医として勤務していました。しかし当時は大学からの出向で、徳洲会の理念にも離島・へき地医療にも関心がなく、日々の診療に手いっぱいの状況でした。

そんななか、体調を崩したことをきっかけに「しばらく離島に行ってはどうか」と助言され、2011年12月から3カ月間、徳之島徳洲会病院に応援の形で入りました。正直、のんびり過ごせると考えており、同僚たちからも「南国でバカンスできて、うらやましい」と送り出されました。

しかし、結果は離島医療の苦しみに身を浸(ひた)した3カ月間でした。少ない医師、満足とは言えない医療機器、慢性的な看護師不足――。完結した医療を行えないいら立ちに、いつ逃げ帰ろうかと考え出した頃、さらに医師数が減少する事態が起き、逃げ時を失った不運にぼうぜんとした覚えがあります。

当時の徳之島病院院長、上山(かみやま)泰男先生の「これが離島症候群。やるしかないです」という超然とした姿に、「何考えとるんや」と腹立たしさを感じると同時に、「このおっさんは守ったらなあかんわ」との思いが湧(わ)きました。

スタッフが自施設の役割理解 患者数増加しクリニック再生

私の奄美群島への思いは上山先生の影響が大きいと思います。大病院の名誉院長に就任してもおかしくない上山先生が小児の予防接種や学校健診、訪問診療などを行われている姿に感動を覚えた時、私も医師としての能力を最大限に使わざるを得ない離島症候群にかかってしまったのです。

12年6月、徳田虎雄・前徳洲会理事長から「徳之島を頼む」という言葉をいただき、正式に同院副院長に就任。番頭役として外に上山先生を立て、私は内の医局、職員の調整役を担いました。同年10月には、東天城(あまぎ)クリニック院長にも就任。東天城クリニックはその頃、年間2000万円を下らない赤字を出しており、廃院の話も出ていました。

しかし、転機がありました。徳之島病院の訪問診療時、患者様から、狭い島内にもかかわらず交通手段がなく、医療機関を受診したことがない方々がいることを聞いたのです。

それまでもクリニックでは、かかりつけの患者様を送迎していましたが、今後は初診・再診にかかわらず依頼があれば送迎してほしいと職員に頼んだところ、地元出身の職員は少ない人手をフル活動して対応。患者数が増加し、黒字を出せるようになりました。

クリニックの再生は現場スタッフが離島の地域性と自施設の役割を理解し動いてくれた結果です。スタッフの地元への思いが伝わるうちに、私のなかでも「上山先生を守ったらなあかん」という思いが、「徳之島を守るんだ」との気持ちに変わっていきました。

医療と仕事がへき地在住条件 人が住める環境守るのが仕事

内閣府の調査では、国民の17%がへき地、いわゆる田舎(いなか)に住みたいと希望しているそうです。しかし、絶対的条件が2つ。医療が充実していることと、仕事があることです。

現在、喜界島は人口7000人余りですが、年100人程度の人口減があります。第一次産業が主な仕事で、ほかに職が少なく、確かに若い世代には定住しにくい環境です。

私を含め喜界病院の職員は、へき地在住条件のひとつ、医療を守る存在です。東天城クリニックの職員のように、当院職員が自分たちの存在意義を理解してくれるよう仕向けることが、私の役割です。

院長職を引き受ける時、鈴木隆夫・徳洲会理事長に申し上げました。「喜界が潰(つぶ)れるか、私が潰れるかですね」と。これは生半可(なまはんか)な思いで院長職を引き受けるのではないという私自身への決意表明です。

関西出身の私がなぜ離島か、いまだ自問自答します。先祖の墓を守らないといけないのではないか。二十数年続けた脳外科医としての技能が消えるのではと不安もあります。

そんな時、ふと思い出すのは「愛郷無限(あいきょうむげん)」の言葉。解釈はいろいろあるでしょう。私にとっての愛郷は土地そのものではなく、今、目の前にいる人を愛する気持ちです。その実践のためには関西人としてではなく、脳外科医としてでもなく、人として医師として、もてる力を最大限活用するしかありません。

私が鈴木理事長に伝えた言葉です。「喜界島が最後の1世帯、1人になっても踏みとどまるしかないですね。医療者ですから」

皆さん、一緒に頑張りましょう。