佐藤 大亮(沖永良部徳洲会病院院長)

徳洲新聞2014年(平成26年)2/17 月曜日 NO.916

「断らない」という徳洲会の理念 島唯一の病院で他に行くあてなし 救急監督者に疑問を覚え現場に飛び込んだ

皆様、初めまして。2014年2月1日付で、沖永良部(おきのえらぶ)徳洲会病院の院長に就任しました。私は1962年4月生まれで、徳田虎雄・前理事長とは2回り年下の寅年です。

大分県挾間町(はさままち)(現・由布(ゆふ)市)という大分市近郊の山間(やまあい)の町に生まれ育ち、地元の高校から熊本大学医学部に進学。88年、同大学第二外科学教室に入局しました。入局時の教授は赤木正信先生でしたが、1年後に退官。91年に大阪大学から小川道雄先生が教授として着任され、小川先生の薫陶(くんとう)を受けて、その後15年間、外科医として研鑽(けんさん)を積んでまいりました。後にうかがったお話では、もともと小川先生は徳田・前理事長のオーベン(指導医)だったとのことで、私がこのたび徳洲会に入職するうえで、何かしらのご縁を感じています。

元来、救急医療に関心がありました。大学医局の関連病院にいた06年1月、同院が救命センターを開設するということで急きょ、済生会福岡総合病院救命センターに派遣、研修を受けました。2年3カ月の間、若い研修医に混じり救急医療を学んだことは良い思い出です。その後、元の病院に戻り救急科を開設。救急科部長として勤務していましたが、設備・人員の整った病院でただ監督者として働くことに疑問を覚え、徳洲会に飛び込みました。

現場に政治色は微塵もなく粛々と医療が行われている

離島の徳洲会グループ病院に入職するにあたり、まったく迷いがなかったといえば嘘(うそ)になります。20年来の付き合いの徳洲会医師人事室のお誘いで、徳洲会系列の病院で一時期、非常勤で土・日のみ勤務したことがあったため、病院の様子や雰囲気などは心得ていました。

しかし、今回入職を決意したのは昨夏のことであり、その直後に全国を揺るがす事件が報道されました。入職前の周囲の反応は芳(かんば)しいものではありませんでした。「騙(だま)されているのではないか」、「政治活動に利用されるのではないか」、「なぜ、敢(あ)えて火中の栗を拾う必要がある」などさまざまな声。事情を知らない人にとって、徳洲会は政治団体のように思えたのでしょう。

実際に本年1月から沖永良部病院に勤務することになって、漠然とした不安は払拭されました。前任の徳久(とくひさ)淳二院長が引き継ぎで残っていてくださったこともあり、スムーズに業務移譲を行うことができました。当たり前のことですが、現場では心配していた政治色など微塵(みじん)もなく、常に粛々(しゅくしゅく)と医療を行っています。「患者さんを断らない病院」という徳洲会の理念も、救急科医師として、これまで救急車を断らないことを心がけてきた私にとって、ごく自然なことでした。まして、島で唯一の病院であるため、患者さんが他に行くあてのない状況では当然のことです。

老朽化した病院を再建し人員・設備ともに整備を

沖永良部病院のすべてはほぼ予想どおりだったのですが、それでも着任後に驚いたことがふたつあります。ひとつは毎朝、8時会や朝礼の際に「徳洲会の理念」を皆で唱和することです。理念の先行する組織は、往々にして硬質化を伴い、現実社会に柔軟に対応できないため、カルト教団のように世の常識を逸脱する行動を起こしてしまうことがあります。しかし徳洲会の場合は、理念自体が普遍性かつ正当性をもっているためか、あるいは理念に従う職員の姿勢が柔軟であるためなのか、おそらく両方でしょうが、医療機関として効率的に機能しています。現場では職員一人ひとりが徳洲会の理念をよく守り、誠実に裏表なく、よく働くという印象を受けます。

もうひとつは、整然とした病院の外観にかかわらず、内部が驚くほど老朽化していること。毎年の台風による雨漏りの影響は凄(すさ)まじく、フロアが水浸しになるほどです。

当院は90年にオープンし、今年で築24年を迎えます。病院は海岸沿いの丘の上にあり、常に潮風に晒(さら)されています。また、沖永良部島はほぼ毎年、台風の通り道になることから、築年数以上に老朽化が進んでいます。雨風の強い日は、職員が建物の海側にある窓サッシの隙間に新聞紙を詰めたり、フロアが水浸しにならないよう新聞紙を敷いたりして対応しているそうです。

沖永良部病院は島唯一の病院であり、最後の砦(とりで)です。そこで、この老朽化した病院を再建し、人員・設備ともに整った病院にする。そして、これを地域住民の方々に還元することこそが、私の使命ではないかと考えています。

皆で頑張りましょう。