平島修(加計呂麻徳洲会診療所所長)

徳洲新聞2013年(平成25年)10/7 月曜日 NO.898

奄美大島の患者さんが「医の原点」を教えてくれた 「人を診る」ことができないと診療は成り立たない 徳洲会グループの枠を超え他院からの研修医も受け入れ

「力を付けて、必ず奄美(あまみ)大島に帰ってくる」

そう思い描いたのは5年前、瀬戸内徳洲会病院に勤務していた頃です。福岡徳洲会病院での4年間の初期・後期研修プログラムのうち、8カ月を奄美大島の瀬戸内病院で過ごしました。当時、常勤医は北原淳詞(あつし)院長と1年先輩の原純先生だけ。3人で60床の病院の外来・病棟・訪問診療をこなしていました。田舎なのでのんびり診療を行っていると思って研修に臨(のぞ)みましたが、日々さまざまなドラマの連続でした。

福岡病院の初期研修では、大勢の指導医の下で熱血指導を受け、何の不安もなく研修を受けていました。奄美大島に来て初めて自分1人で当直や救急外来を担当し、診断・治療方針の決定・説明・看取(みと)りを経験するなかで、かなり思い上がっていた自分に気付かされました。たとえば「肺炎」という診断ひとつとっても1人で診断し、患者さんに説明を行い、治療経過を追うことは責任重大で、常に不安と背中合わせ。病気を診る前に、人を診ることができないと診療は成り立たないことが、よく理解できました。

主治医として医療に携り外来・病棟・訪問を担当

私は奄美大島で初めて「主治医」を経験しました。主治医は診断・治療だけでなく、患者さんの人生の責任も担う必要があることを教えられました。

ある日、前立腺がんと診断されてから数年経ち、全身に骨(こつ)転移を起こした患者さんが食欲不振で入院され、担当することになりました。悪液質(あくえきしつ)(何らかの疾患が原因で栄養失調になり衰弱した状態)による食欲不振でした。患者さんは疾患の告知はされていても、少し入院して点滴すれば元気になると思われていましたが、入院を継続しても食欲不振は改善しません。何度もご家族と話し合った結果、予後告知をしてほしいとの依頼を受けました。私にとり、この患者さんとの1日は大変貴重な時間でした。

晴れた日の午後、私はベッド脇に座り患者さんの若かりし頃の思い出や戦争時代の話、島の歴史などを、たくさんの笑いを交えて聞きました。そして、いよいよお迎えが迫っていると話し、「1日1日を大事に過ごし夏休みに帰ってくるお孫さんにも生きた証しを残してほしい」と伝えました。患者さんの目からは大粒の涙が流れ、私の目からも大量の涙がこぼれ落ちました。個室のなかで男2人が思う存分泣いた後、「あなたが困った時は、私が主治医としてお宅を訪問します」と伝えました。翌日、この患者さんは退院され訪問診療に切り替えました。夏休みをお孫さんと過ごされ、秋に息を引き取られました。

訪問診療では、いつも笑顔で過ごして、苦しそうな顔はほとんど見られませんでした。外来・病棟・訪問まで、すべてにかかわれたのは、瀬戸内病院だからこそ。

私は奄美大島で、「医の原点」を学んだのです。

先進的医療が忘れている「手当て」という診療を

初期・後期研修でこのような経験をすることは将来、どこに勤務するにせよ、医療人として働く者にとってとても貴重です。さらに問診・身体診察に重きを置いた指導医が奄美大島にいれば、島での研修は日本一になると考えました。そこで同診療を大阪の市立堺病院で4年間学び、奄美大島にもち帰りました。同院で学んだなかには今の先進的な医療が忘れてしまった「手当て」という診療の形もありました。

市立堺病院で、伊東直哉先生、朴澤憲和(ほうざわのりかず)先生という同志を得て、4月から奄美大島で「3本の矢」と称する診療をスタート。私が彼らを口説いたわけではありません。離島医療の現実を伝え、学ぶ要素が大きいと説明しただけです。若い世代は離島で経験を積むことで、医療とは何かを患者さんが教えてくれるのです。

教育は人を引き付けます。瀬戸内病院には、今年度から飯塚病院・八戸市民病院・熊本大学医学部附属病院・市立堺病院の初期・後期研修医が参加。今夏は全国から30人の学生の見学・実習を受け入れました。

今は加計呂麻(かけろま)徳洲会診療所だけでなく、瀬戸内病院と名瀬徳洲会病院にも勤務し、診察について研修医にレクチャーすることもあります。また、岸和田徳洲会病院で研修医を対象とする勉強会の指導や、全国の大学で講演も行っています。

地域に根ざした医療を地道に行い、疾患だけではなく、患者さんに優しい医療を提供できる「人を診る」医師を育てていきたいと考えています。

皆で頑張りましょう。