久志安範~与論徳洲会病院院長~

徳洲新聞2012年(平成24年)12/10 月曜日 NO.855

都市部の病院では得られない医療の原点が離島・僻地にある 私たちは自宅で最期を迎えたいと願う人たちを支え続ける

10月26日、徳田虎雄理事長が与論島に来られました。今回の訪問では、滞在の半分の時間が町立総合体育館での与論町名誉町民授与式にあてられました。心配は、もし面談した方が感激のあまり握手した手を大きく振ると、ALSの身である理事長は全身の筋肉の緊張がないため骨折の可能性もあることで、職員と安全面の対策を講じました。一方、理事長とともに選挙を戦った酒匂浩隆事務長には「理事長はその場その場でベストを尽くそうとされるので、変更が多く先が読めない。それについていくだけの心構えと余裕が必要」と教わりました。川畑ゆり子・看護部長は、横断幕の手配や会場の設営対策にかかりっきり。ちょうど当院は外壁補修工事中で、会場のデイサービス室の壁紙も張り直して見違えるほどきれいになりました。

当日、理事長のヘリが与論空港に降り立つと一路、与論病院へ。鹿児島のテレビ局の取材陣も入り、理事長の来島の意義と重大さに緊張しました。院内には「理事長歓迎」の大きな垂れ幕が掲げられ、職員たちの「理事長お帰りなさい」という歓迎の声が響き渡りました。まず、徳之島徳洲会病院初代院長で現・パナウル診療所所長の古川誠二先生と、特別診療に来訪中の琉球大学皮膚科の眞鳥繁隆先生に面談していただきました。その後、私は「都市部に負けない医療を展開します」と理事長に約束、職員のメッセージが入った写真集を手渡しました。理事長は当院の職員や退職者、グループホームゆんぬ、授産施設・秀和苑職員ら154人と面談、握手、写真撮影を行い、予定より早く進行することができました。

奄美諸島を命懸けで訪問する理事長の期待に応えなければ

町立総合体育館は、654人の来場者で超満員。ちなみに、与論島の人口は約5300人ですから、1割以上の方が参加されたことになります。式の進行はスムーズに進みましたが、終了後に突然、理事長は来場された一人ひとりの方との面談・握手・写真撮影を希望し、計256人の方が参加されました。あまりの人の多さに気を遣い、参加せずに帰られた方も大勢いらっしゃったそうです。

与論空港では定期便の発着が重なり、ヘリの出発が30分ほど遅れました。その間にも写真撮影に応じるなど、気を遣われた理事長でした。ヘリ機内の理事長は頸部(けいぶ)に固定装置を装着、眼前まで計器パネルが延び、とても窮屈(きゅうくつ)そうでした。それを見て、奄美(あまみ)の島々を命懸けで訪問する決心をされているとあらためて思い知り、期待に応えなければならないと強く感じました。

ふと、元気な頃の理事長が、選挙遊説で来島されたときのことを思い出しました。今回と同じく、あたかも台風のごとく島中を駆け抜けていかれました。今は歩くことがかなわない理事長ですが、当時と変わらない気迫と周りの者に対する気遣い、心遣いを感じました。島の人たちも、昔と同様に理事長を応援しています。世界中に病院をつくる夢の実現のために、私たちも頑張っていきたいと思います。

私は1983年に徳島大学医学部を卒業し、南部徳洲会病院に入職。5年目からは沖永良部(おきのえらぶ)島、喜界(きかい)島、加計呂麻(かけろま)島と離島での医療を経験し、98年11月1日付けで与論徳洲会病院の院長に赴任しました。当時の上司だった南部病院の故・金城浩院長から「与論に2、3年行ってこい」といわれましたが、はや15年目。離島の院長のなかでの、在任最長記録を更新中です。今年10月、64列CTが当院に導入され冠動脈撮影が始まりました。翌月にはPACS(パックス)(医用画像保管電送システム)も導入し、レントゲンのフィルムレスが実現。来年の9月には、待望久しい電子カルテが導入される予定です。

理事長と約束した都市部に負けない医療を行うためのハードが、少しずつそろってきています。しかし、大事なのは島に1つだけの当院を、大切に思ってくださる島の人たちというソフトの存在です。また研修医には研修期間中に、医療という責任感を求められる仕事の意義を肌で感じてもらっています。

与論島では在宅死の割合が7割程度あり、当院ではその割合が8割以上になります。都市部では、自分の最期(さいご)は自宅でと思ってもなかなか実現できません。与論島の人たちは家族に見守られながら、畳(たたみ)の上で最期を迎えないと魂が成仏(じょうぶつ)できないと信じています。この貴重な習慣を継続していきたいと思います。

徳洲会にいたからこそ自分の理想とする仕事を遂行できた

私は小学校3年生のときに母を病気で亡くし、父は、長男の私を含め男3人、女1人の子どもを男手一つで育ててくれました。酒飲みの怖い父でしたが、私が医者になったのはこの父の勧めがあったからです。晩年は、肺が弱く入退院の繰り返し。11年10月、慢性腎不全も悪化し、透析が必要と入院先の南部病院の主治医から連絡がありました。翌日、セスナの徳洲号で、経鼻挿管された父をバッグ換気しながら与論病院に搬送しました。約2カ月間、父を治療し、今年1月7日、最期を私の家族で看取ることができました。自分で治療でき、最後の親孝行ができたと思います。徳洲会にいたからこそ、自分の理想とする仕事が遂行できたと思っています。

徳洲会の柱の1つが、離島・僻地(へきち)医療です。都市部の病院では得られない医療の原点がここにあります。新臨床研修システムが始まって8年、研修医たちは離島・僻地を経験しています。さらに多くの医師が、離島・僻地を経験して徳洲会の原点、医療の原点を体験できるシステムにしていきたいと思います。

小・中・高校の教師は、2~ 3年を離島で過ごします。教師にできて、なぜ徳洲会の医師にできないのでしょうか。世の中の変化に応じ、医療界も変わらなければならないと思います。それ以上に、徳洲会のなかも変革が求められているのです。

皆で頑張りましょう。