若松篤範(徳洲会東京本部顧問)

徳洲新聞2010年(平成22年)7/26 月曜日 NO.733

郷里を愛する気持ちが深くなるほど無限の可能性が引き出せる~奄美を日本一の医療と福祉の島にして、人の心を解放する~

私は今年4月、徳田虎雄理事長の再三のおすすめに従って、宇和島徳洲会病院で腎移植手術を受けました。腎臓提供者は、私の妻です。同院の万波誠先生が執刀してくださり、今は奄美大島で元気に暮らしています。

このたびの移植手術にあたりましては、身に余る多くのご厚意を賜りました。この場を借りて心から感謝申し上げます。

私が、初めて理事長にお会いしたのは1983年。当時の私は奄美大島青年会議所(JC)の理事長で、運動方針に奄美の島おこしを掲げていました。その頃の奄美経済は絶頂期でしたが、基幹産業の大島紬は韓国紬の進出の影響を受け、生産面積が増えたサトウキビも収穫量の減少に悩まされていました。奄美経済はこの年を境に衰退に転じ、現在大島紬の生産額は当時の20分の1にまで落ち込んでいます。

奄美の振興は、公共工事中心から風土歴史に根ざしたソフト中心にしなければならないというのが私たちの主張でした。この考えをもとに経済界、政界のリーダーたちと懇談会をもっていました。徳田理事長は、奄美の各島に病院をつくり日本一の医療の島にすると宣言し、各地で講演会を開催していました。私は早速JC会員との懇談会を申し込みました。当日は、早朝6時から40人の会員を前に、腕まくりした理事長が黒板を背に熱弁を振るわれました。

その日の徳田理事長との出会いは私の生涯を決定しました。 「奄美は琉球支配、薩摩支配、アメリカ支配と長い間抑圧されてきた。このいじめられてきた歴史こそが、奄美の心の原点だ。郷里を愛する気持ちが深くなればなるほど無限の可能性が引き出せる。医療は患者のためにあり、政治は国民のためにある。政治の原点は福祉にあり、福祉の原点は医療にある。今奄美は一部の人たちが島民を抑えつけ、金儲けをしている。僕は奄美の全ての島に病院をつくり、奄美を日本一の医療の島、福祉の島にして抑圧された奄美の人の心の解放運動をする」

これらの言葉は、私の心にずしりと響きました。このとき生涯、徳田理事長を応援していくことを心に決めました。

徹底した辻説法と奄美の全集落を回るドブ板選挙

徳田理事長は、83年の第37回衆院選に奄美群島区から立候補。相手は自民党・田中軍団のプリンスといわれた保岡興治先生です。当時の選挙制度は中選挙区制でしたが奄美だけは唯一の小選挙区でした。田中派の面子をかけた戦いはすさまじく、奄美14市町村長のうち、地元伊仙町以外の13人と農協、漁協をはじめ奄美のありとあらゆる団体の長や会社のトップのほとんどが自民党支持に回り、文字どおり金持ちと貧乏人の戦いでした。

徳田理事長の戦術は、徹底した辻説法と奄美の全集落を回るドブ板選挙でした。私は若手経営者の同志とともに、奄美の島おこしグループ「島立て会」を組織して運動に参加しました。

集会場を借りることができず、演説会は公園にシートを張り黒板を持ち込んで夜はライトを照らしました。シートの中は徳田派、周囲には保岡派が陣取り、ヤジが飛び交う騒然とした雰囲気の中で開催されることもしばしばでした。こうした集会は全集落で行われ、私も奄美中を回りました。この経験が、後に市議になる契機となりました。

公示前夜、田中派の大番頭である竹下登大蔵大臣が来島。翌日の出陣式は現職大臣が奄美で第一声を上げるという歴史始まって以来のことが起こり、以後の選挙戦にも田中派の全大臣が来島しました。選挙情勢は徳田理事長の優勢が大方の予想でしたが、なりふり構わない猛烈な巻き返しにあい僅差で敗退。奄美群島区最後の戦いとなった3回目の選挙では徳田理事長が勝利。後に選挙区割りが変更され奄美は鹿児島1区に編入、徳田理事長と保岡先生は1区から出馬しました。定員4人なので2人の一騎打ちは終わりました。次の選挙で選挙制度が小選挙区制になり保岡先生は1区、徳田理事長は奄美を編入した2区から出馬し、事実上“保徳戦争”は終わりを告げました。

「ヘルシーリゾートアイランド」を目指すことを主張

その後、徳田理事長は奄美から初の政党・自由連合を立ち上げ、村山内閣で沖縄開発庁政務次官を務めました。2区での初の選挙では不覚を取ったものの、次にはすぐ復帰し連続2期、都合4期の当選を果たしました。激しかった保徳戦争で争われたのは何か。保岡先生は公共工事を中心として奄美振興特別予算の増額強化を訴え、徳田理事長は奄美を日本一の医療・福祉の島にして「ヘルシーリゾートアイランド」を目指すことを主張し続けました。2人の主張は対立しているように見えますが、奄美の予算を増やしていかに島を豊かにするかという点で同じ方向を向いていたと思います。

私は、理事長の最初の選挙後、名瀬市議会選に立候補。理事長と全群島を遊説したおかげで3位当選を果たし、2期目はトップ当選。その後徳田事務所に入職し、お世話になっています。

保徳戦争の間、奄美振興特別予算は大幅な伸びを示しています。徳洲会は奄美全島に病院や福祉施設をつくり、日本一の医療と福祉づくりが現実のものとなりました。国政では自由連合を足がかりに幅広く政党・会派との連携が深まり、超党派の島嶼議員連盟が結成されました。自民党からは奄美振興法、離島振興法を沖振法と同じ補助率まで引き上げる離島振興法改正案が先の通常国会で提案されるに至っています。県政では奄美から初の県議会議長が誕生、全国議長会会長も務めました。奄美出身の政治家が輝いた時代です。

しかし奄美の経済は落ち続け、人口減に歯止めがかかりません。新たに米軍基地の問題がのしかかり、他民族支配の歴史はまたも繰り返されるのでしょうか。

奄美だけでなく、全国の農村離島の生命と暮らしを守るためにも、皆で頑張りましょう。