小林修三(榛原総合病院副院長  院長補佐役)

徳洲新聞2010年(平成22年)3/29 月曜日 NO.716

病院は地域の生活と文化の中心であり感動の舞台である ~求める医学はひとつであっても個性的でやさしい医療を目指そう~

病院は地域の人々の生活と文化の中心でなくてはなりません。初めての病院(ホスピタル)は、紀元529年イタリアのモンテカッシーニ修道院に設けられた養護施設(ホスピス)とされています。病気だけでなく、困っている人々を助け、心の安らぎも与えるところでした。

ギリシャ神話に登場する医神アスクレピオスには2人の娘がいました。1人はパナケイアで「全てを治す女神」とされ、英語のpanacea(パナシア)は万能薬という意味で用いられています。もう1人はヒュゲイアと呼ばれ、予防の女神で公衆衛生学の英訳hygiene(ハイジン)の元になっています。

アスクレピオスは、2人の娘に生涯手に手を取って仲良くすることを教えました。われわれの医療も、病気の予防から先端的治療、そして「心の問題」まで含んだ医療を行うことだと諭しています。医療は、遠くギリシャの時代でも人々の暮らしと地域に深く根づいたものです。

医学の進歩は目覚ましいものがある一方、日常の医療では多くの患者さんが「癒されない」ことも多く、心ない医療者の言動に傷つく多くの方々がおられます。たとえ手術が成功しても、それだけでは患者さんが「治った」とはいえないことがたくさんあります。内科医の私には「神の手」はありませんが、こうしたやさしい医療を心がけたいと思います。医学はひとつですが、医療はいくつあってもいいと思います。医学という「真実」を追究しつつ、それをもとに「患者さんのために」自分たちのやさしい医療を行うことが大切です。

科学としての医学を追究する姿勢は、どんな小さな疑問をも放置せず、驕ることなく「世にものを問う」ものでなければなりません。私にとって「大医」とは、医学研究によって医学・医療を変えることです。このことは生涯にわたり自分自身に言い聞かせ続けたいと思います。

官僚主義ではなく自由闊達な医療が患者さんを救う

私は1974年、浜松医科大学に1期生として入学。以来25年間静岡県の医療に従事していました。初めて内科部長になったのは37歳のとき、伊豆逓信病院でした。救急車が出ていく病院を、救急車が入ってくる病院にしたいと願いました。また、患者さんのために土曜の透析を行うのも当たり前でした。何度も組合書記長と交渉しました。防衛医科大学校病院では蓄尿容器を売店に置いてもらうにも苦労し、こうしたさまざまな官僚主義に辟易してしまいました。

これでは自分の思う医療ができないと考えて、自由闊達な湘南鎌倉総合病院に入職することにしたのです。同院はまるで野戦病院でした。副院長室がないのは当然で、医局はプレハブ造りでした。そういえば浜松医大の入学時も、校舎がプレハブでしたから、私の人生はまさに「プレハブ人生」です。

同院での11年間に、学会のガイドラインづくりの責任者にもなり、また世界から多くの講演を依頼されるようにもなりました。全ては、自由闊達な医療を行えたおかげです。

この間、電子カルテの導入、医療安全システムの確立、専門医の充実をはじめ、総合内科、オンコロジーセンター、NST、フットケアチームなどの立ち上げ、アフリカのモザンビークでの初めての透析医療の確立、幹細胞移植など、多くの職員の熱心な協力によってさまざまなシステムを構築してきました。

最もうれしかったのは、静内、札幌東、山北、出雲、大隅鹿屋、瀬戸内、徳之島、沖永良部など徳洲会病院の透析室スタッフと質の高い医療を語り合ったことです。離島・僻地でも世界トップクラスの医療ができます。使命感と愛に満ちたスタッフとともに働くのは喜びです。

病院は少ない職員でもやれる「しくみ」の調整が重要だ

病院ほど複雑で多職種の人たちが働いている職場は少ないでしょう。それだけに運営には「しくみ」の調整が不可欠です。

患者さんになったつもりで院内を歩いてみると、不親切な掲示や無理、無駄、無茶苦茶な誘導などがたくさんあることに気づきます。どんな小さな不親切でもすぐに是正しなければなりません。

医療の安全も「しくみ」の見直しから始めるべきでしょう。日常的な調整を怠ると医療の安全を揺るがす結果を招きます。医師と看護師、診療支援6職種、そして大きな土台づくりに関わる事務職などが、完全に対等な関係でチーム医療を構築すべきです。病院とは安全、安心な医療を土台に、やさしい医療を行い、質の高い医学に基づいた、個性ある医療を患者さんのために展開する「感動の舞台」です。

私は新しく誕生した伝統ある榛原総合病院に赴任しました。同院の院長は、浜松医大の後輩で優秀な産婦人科医です。間違いなくグループ最大の病院になります。赴任前、こっそりと病院を訪ね、院長から話を聞きました。私は辛かったし、悔しかったし、残念でした。義を見て為さざるは勇無きなりの言葉どおり、この病院のため微力ながらできることは何でもしようと決心しました。

私は神がいると思います。私の医師としての原点は、30年前週に1度徹夜の救急医療にあたるため、大学から何度もこの地域に車で通ったことにあります。神は、私を医師としての原点であるこの地に、今一度戻したかったのではないでしょうか。

中学時代にはかなり強いバレーボール部のセッターでした。アッタカーが得点を決めて初めて認められるポジションです。アタッカーのミスはセッターのトスが悪いからと、いつも叱られました。言い訳は無用でした。しかも、「勉強も一番、バレーも一番」と徹底して教えられました。最大の喜びはチーム全員で分かち合えることです。

実力ある本当のトップを支え、生き生きと「努力と工夫」によって「患者さんのために」働けることは楽しいことではないでしょうか。皆で頑張りましょう。