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徳洲新聞2006年(平成18年)6/19 月曜日 NO.523
直言 徳洲会の原点である離島医療の生みの親は理事長のお母さん
~離島に住む人達の生命と暮らしを守るのが私達の使命~

福島ミネ(沖永良部徳洲会病院 副院長兼看護部長)
 私は看護を通して 社会に役立ちたいと看護の道を志しました。武蔵野赤十字高等看護学院在学中に「看護師は医学知識を持った母親でなければならない」、「看護は健康、不健康を問わず、あらゆる健康レベルの対象に働き掛ける行為」と教わりました。なかでも「最も難しい看護は平和な死への援助である」という母親のような愛情と安らかな終末期の看護の大切さを繰り返し学びましたが、この課題は生涯学び続ける必要があると思います。
 昭和33年、同学院を卒業と同時に武蔵野赤十字病院の産婦人科病棟へ配属となりました。戦後の復興期で、中央線沿線の団地住まいの妊婦さんが昼夜の別なく来院される等、50床の病棟は常に満床状態。毎月300人以上の出産に備えました。多忙な勤務態勢の中で緊張の連続でしたが、生命の誕生を患者さんと喜び合える充実感も味わえました。
 昭和34年9月の伊勢湾台風は死者5,041人。被害家屋57万戸に及ぶ大被害でした。「赤十字病院は、災害救護員養成の訓練の場として設立された」という教育を受け、卒後2年目で被災地に派遣されました。流木での負傷者や頭痛、消化器に不調を訴える方達が俄に海と化した景色を呆然と眺めている様子は、近年、世界各地で発生している災害と重なって映ります。TMATの活躍状況を見聞するたびに被災者の苦しみが蘇ります。

偉大な“母の力”が島々に夢と希望をもたらした
 徳田虎雄理事長の著書『母の力』は、 同世代を生きてきた島の人たちにとっては、深く共感すると同時に強い力を与えました。「子は親の後姿を観て育つ」と言われますが、徳田少年が夜中に病気になった3歳の弟さんを医者に診てもらうために暗い夜道を走り続け、やっと辿りつき懇願したにも拘らず医者は来てくれなかった。そして弟さんは亡くなりました。何と悔しい、悲しい、痛ましい出来事でしょう。腸が煮えくり返る思いではなかったでしょうか。
 2カ所で医師に断られ、失望して帰る少年。ひたすら我が子を案じながら、待ち続ける母親マツさんの心情を察すると涙が止まりません。この筆舌に尽くし難い母子の情愛が、超人的な島根性を発揮し今日に至ったと考えます。その土台を築いてくださった偉大な母マツさんの数々の無言の教訓が、徳田理事長を通して徳洲会を生み出したのでしょう。
 平成2年5月1日、沖永良部島の知名町体育館は満場の観客の熱気で沸き上っていました。それは徳洲会27番目の沖永良部徳洲会病院の創立記念式典に、徳田理事長が救世主の如く颯爽と登場されたからです。割れんばかりの拍手に迎えられ、満面の笑みを浮かべた理事長の姿に、思わず合掌し、涙ぐんでいるお年寄りの姿も見受けました。
 連休を利用して帰島していた私は、正に映画館の観客席にいるが如く、2階席から式典の様子を傍観していました。しかし自然に参加者の興奮の渦に呑み込まれていくような状況で、当時の光景は今でも脳裏に最近の事のように焼き付いています。
 それまで人口1万5,000人の島民は、土地を切り売りして治療費や旅費を工面し、大病を患った病人に付き添い、本土や沖縄へ移動しなければならない事もあったのです。
 昭和61年、徳田理事長の故郷徳之島に徳之島徳洲会病院が設立されてからは、船で2時間行けば治療が受けられる様になり、しかも院内に宿泊施設も整備されており、多くの住民から近くて、安くて、安心、安全と、明るい喜びの声が聞かれました。
 定年後は住み慣れた故郷でのんびり暮らしたいと考えていた私は、土地を確保していましたが、その機は意外と早く到来しました。沖永良部徳洲会病院開院が間近に迫ったある日、徳洲会看護対策担当の久保悦子部長が武蔵野赤十字病院に来られました。沖永良部に病院ができるので、責任者としてぜひ来てほしいと。未だ内外に帰郷の意思表示もしておらず、内密にと伝えると怪訝な顔をしておられました。
 帰り際、菓子折を出された部長さんにまだ約束はできないからと辞すると、すかさず「患者さんではないし、それにこれは珍しいものです」と置いていかれました。後で開けると正に珍しい品で“どら焼き”ではなく“トラ焼き”だったのです。

離島医療の充実には政治的、経済的手段が不可欠
 沖永良部徳洲会病院就職に当って、 当時の重信事務部長に対し、「自分は医療・看護に専念するが、政治活動はしない。したくない」と訴えました。今、振り返ると何と無謀な言葉だろうと思います。
 その根源は、昭和35年から始まった激しい病院ストライキの後遺症にあります。職場放棄を迫られた私は「患者様を看放す事はできない」と労働組合へ脱退届を提出して職場へ復帰。所謂「スト破り」でした。その時以来、イデオロギーの対立は避けたいとの思いから、政治活動への反発感情が強くなっていったのです。
 しかし、沖永良部徳洲会病院の開院前には健康友の会が結成される等、地元の皆さんの熱い思いと行動に接し、政治活動の必要性を痛感しました。
 初代の小林司院長と原口アキ総婦長が、全国の徳洲会グループ病院のご協力の下に今日の病院の基礎を築かれました。
 時代の変遷と共に医療環境も変化して、当院も創立以来16年、多くの救命救急医療の対応や在宅医療・介護に至るまで多岐にわたる医療・福祉活動を展開してきました。
 中でも緊急手術や島外への救急搬送は一刻を争う事態であり、離島医療の極めて困難かつ重要な課題です。特に輸血が必要となると、血液センターがないので職員の献血は勿論、自衛隊や町役場職員の協力を頂き、急場を凌いでいる現状です。このようにして救命できた喜び、病院があるお陰で助かったとの声は、何物にも代え難い幸せです。また当院では人工透析が実施でき“通常透析”以外でも、里帰りが可能になったと喜ばれています。
 更に介護保険関連事業やグループホームの存在も、高齢化社会の中で大いに注目されています。離島では医師不足等は深刻な問題ですが、これからもグループ病院の応援を得ながら島の医療と福祉に貢献して参ります。
 皆で頑張りましょう。
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