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徳洲新聞2005年(平成17年)12/19 月曜日 NO.498
直言 徳洲会の原点徳之島から愛を込めて全世界医療革命を
~長い苦難の歴史の中で培われた不屈の魂に基礎がある~

松本繁世(徳之島徳洲会病院院長)
 群青コバルト色の海、 水平線に湧き立つ入道雲、沖合遥かに広がるサンゴ礁。その先端で弾ける白い波。蝶や渡り鳥が北へ、南へと渡る島。足元にはアダンの木が砂浜を守り、静かな漣が寄せては返します。徳田虎雄理事長の故郷、徳之島亀徳港を見下ろす高台に立ち、頭を巡らせば往年の名横綱朝潮太郎の故郷井ノ川岳が聳え立ち、サトウキビが海風にざわめいています。
 ここ徳之島は、琉球列島の中で沖縄本島から北へ与論、沖永良部を経て3番目にあり、北には加計呂麻、奄美、喜界と続きます。遠く奈良朝時代、この島々は遣唐使往来の最南端のルートでした。遣唐使廃止の後、一時歴史の舞台から退いたような感がありましたが、1200~1300年代には徳之島ではカムイヤキという焼き物が作られ、琉球、九州にまで販路が広がっていたと言われています。当時徳之島には、この交易で得られた富を基に、強力な支配者が誕生し、全琉球を支配していたという説もあります。
 1416年、沖縄本島に琉球王朝が誕生し、奄美諸島、徳之島も支配下に入りました。そのため、今尚琉球文化の伝統が奄美各島には底流として残されています。ところが1609年、薩摩藩が関が原での歴戦の兵3000人で南下し、瞬く間に琉球列島全域を支配下に治めました。薩摩藩は対明貿易のため琉球王朝は一応認めるものの、その貿易利益を独占しました。
 幕末近くになると、江戸幕府は外様である島津藩には長良川の治水工事をさせるなど、多大な借金を負わせました。破綻した藩財政再建のために、薩摩藩は奄美琉球列島でサトウキビを作らせ、それを本土で売り捌くことで莫大な利益を得ました。そのため奄美大島、徳之島、喜界島の3島は、島津藩直轄となり、サトウキビ生産の最大産地であった徳之島には過酷極まりない支配が行われたのです。想像を絶する植民地支配が行われたことは、あまり本土の人達には知られていません。島民には米を作らせず、自給させず、生活物資も薩摩藩が独占販売して、二重三重の搾取が行われたと歴史の書は記しています。

徳田理事長のお父さんの姿にTMATの姿を見る
 時は巡り幕末を迎えると、 幕府に苛め抜かれた薩摩藩の下級武士達は、これら琉球列島からもたらされる海外情報をいち早く受け取り、日本の未来に思いを馳せました。その動きの中心にいた西郷隆盛は、当時の藩主・島津久光に追放され、1859~64年に掛けて奄美大島、徳之島、沖永良部に流刑。この島々で西郷は、各島からの最新の国際情報を早くから受信していました。彼の流刑に先立ってアメリカのペリー艦隊は1853年那覇に上陸、琉球王朝に開城させています。その後に、ペリーは浦賀に渡来したのです。当時からアメリカはアジアのキーストーン(要石)としての沖縄に着目し、日本を研究し尽くしていたようです。
 奄美群島の人々の血と汗の結晶であるサトウキビはしかし、薩摩藩の軍艦や大砲に姿を変え、明治維新の原動力となりました。奄美沖縄の人々が縁の下の力持ちになって、情報から軍事力まで準備して明治維新を成功させたと言っても過言ではありません。
 第二次大戦末期、徳田理事長は鹿児島沖で沈没した学童疎開船「武州丸」に乗り込む予定であったとのことです。もし理事長がこの船に乗っていれば今の徳洲会はなかったわけで、乗船しなかったことは神の配慮としか言いようがありません。理事長の当時の思い出の中に、亀徳港沖3㎞地点で撃沈した「富山丸」のことも出てきます。南方支援のために油を満載した軍艦に魚雷が命中し、亀徳港沖が火の海になり4000名近くの兵士の命が奪われました。理事長のお父さんが、その兵士の救援に必死で当たられる姿は、まさしくTMATの原点でもありました。

理事長のあらゆる思想と行動に徳之島の気風が漂う
 第二次大戦後、 奄美諸島は8年間、沖縄は27年間に亘って米軍占領下にあり、再び植民地支配の苦難の道を歩みました。徳田理事長は小学生の時に終戦を迎えますが、本土から切り離された中で徳之島の泉芳朗氏が復帰運動の先頭に立ち、沖縄に先んじて本土復帰を勝ち取っています。
 最近、亀徳港に徳之島町教育委員会が看板を立てました。それは「秋徳(亀徳)湊の戦い」についてのもので、1609年の薩摩藩侵攻に対し亀徳の人々が徹底抗戦したとの記述があり、また徳之島では母間騒動や犬田布騒動などの一揆が起こっています。他島では抵抗は殆ど封じ込められましたが、徳之島には「是は是、非は非という徹底した考えと、不屈の魂」が島民の気風の根底に流れています。理事長のあらゆる思想と行動の中にはこの魂があり、それが徳洲会の原点となっています。それゆえ、わが徳洲会は奄美の島々の人々の生き様がこの世に姿を現したものとも言えるのです。
 理事長が奄美で選挙に立った時、熱狂的に歓迎され、その声を聞きに多くの人々が集まりました。理事長の母上のマツさんも、一軒一軒徒歩で奄美全島7万余世帯を回りました。家に人がいない時には牛に声を掛け「虎雄が選挙に立ったので、よろしく」と言って回った程です。3度目の挑戦で国会入りを果たすのですが、当初は理事長の支援者は鎌などで追い駆けられたり、数人が命を奪われたり、ひどい脅迫や迫害を受けたと言います。
 今、人口約13万の奄美群島に病院7、診療所5、老健2、グループホーム8など計33施設があり、島民の医療・福祉のために奮闘しています。奄美各島では完結した医療が受けられない状態が長く続き、徳洲会の病院づくりはその歴史に終止符を打つものでした。
 理事長の精神は、長い苦難の歴史の中で培われてきた不屈の魂を基礎にし、それを全ての弱い者、恵まれない者、苦しむ者への愛へ昇華したものと言えるのではないでしょうか。この精神に立ち戻る時、私たち徳洲会は全世界に通じる普遍性を持つことになります。
 徳之島から全世界へ!
 理事長の故郷亀徳を見下ろすなごみの里には、富山丸と武州丸の慰霊塔があります。この地が徳洲会の原点であり、弱者の立場に立った世界平和に貢献する由縁でもあります。
 皆で頑張りましょう。
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