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徳洲新聞2005年(平成17年)8/24 水曜日 NO.482
直言 親、恩師、仲間に恵まれ可能性は世界へ拡がり自由を得る
~身近な人を心の師に、人に敬意を払い、感謝で生きる~

満元洋二郎(名瀬徳洲会病院総長)
「立って半畳寝て一畳」、 「学校は、友達をつくる所、勉強を教わる所ではない。勉強の仕方を学んで、一人で勉強しろ」
 尊敬する父が、よく言っていた言葉です。その父が肺がんを患い、床に臥しました。「内地で手術をするからおいでよ」と勧めましたが「島は絶対離れない」と言われ、「何のために外科医になったのか」と私は悩み、奄美に戻ろうと決めたのです。
 その時に、16年間も私を徳洲会に誘い続けてくださっていた人事担当の富島博久さんが来訪されました。やはり物事にはタイミングがあるのでしょうか、それまで漠然としていた徳洲会入りの話が一気に決まり、名瀬病院と瀬戸内病院を見学。
 名瀬病院は医療機器も十分に揃っており、医療を行う上で満足のいく病院でしたが、瀬戸内病院は医療機器も少なく、医師、看護師も不足。しかも中核である名瀬市からも遠く、山道を越える必要がありました。「お年寄りにこの山道を越えさせないためにも、ここで頑張ろう」と直感的にそう決めました。そのほうが自分の力を発揮でき、ゼロからの出発のほうが楽しいと自分自身に言い聞かせました。しかし、義理を欠くわけにはいかず、早速恩師の永末直文先生(現島根大学医学部学部長)に、奄美に戻り医療をしたい旨を伝えました。
「郷土に錦を飾ってきなさい。それも男の美学です。どこで医療をしても、あなたは同胞です。できる限りの応援をします」
 その言葉に感動し、永末先生に師事できたことを感謝しました。島への転勤は残務整理や引継ぎ等で、翌15年の4月からとなりました。その年の10月、父は肺がんの再発で他界し、決断の遅さを今でも悔やんでいます。

人との出会いと感動が人生観を変え夢は世界中へ
 平成14年12月に、 徳田虎雄理事長と面談する機会を得ました。最初に驚いたことは、その風貌です。ボサボサ頭にヨレヨレの背広、そして履き潰した靴。しかし、何よりも眼光の鋭さは驚異でした。瀬戸内徳洲会病院で働きたい旨を伝え、その動機を徳田理事長に説明したところ「それが人間として普通だ。しかし、それをできる人は少ないんだ」と言われました。
 私の一大決心を、普通のことだと言われる徳田理事長の言葉に、一瞬唖然としましたが、それはすぐに、再び師事できる人と巡り合えた喜びへと変わりました。そして、自分の選択は正しかったと確信でき安心しました。
 瀬戸内では僻地医療ではなく、普通の医療を普通にできることを目指しました。あっても困らない病院から、なくてはならない病院への脱却です。
 勤務して2カ月後、再び徳田理事長と会う機会があり、今度は「いい医療をするためには、選挙運動をやらないと駄目だ」と示唆されました。
 奄美での病院設立には、政治力も必要なことはよく理解できました。多くの病院の協力で医療講演を行う機会を多数頂き、瀬戸内病院の方向性を住民の皆さんにアピールでき、患者数も増加。選挙運動も悪くないと思った頃、初の個別訪問で自分の甘さに愕然としました。
 選挙運動は医療講演の延長と思っていた私にとって、冷水をかぶせられる思いでした。医療講演は、医師の立場で行っていましたが、戸別訪問となると、医師の立場を離れて一人の人間としてお願いするしかないのです。そこに、医師の優位性は皆無でした。患者さんには敬意を払うべきだと言いながら、いつの間にか医師の立場に驕っていたのです。選挙運動のつもりで患者さんに接しなければいけないのだと、またも教えられました。
 四役会議で徳田理事長に会った時、今度は「瀬戸内でいつまでも遊んでいるな」と言われ、「遊んでいるつもりはありません」と答えてしまいました。でもよく考えてみると、私は病院で業務はしていても、私が不在でも病院が成り立つための仕事をしていませんでした。
 院長としては遊んでおり、見抜かれていました。名瀬徳洲会病院に異動後、徳田理事長に挨拶に伺うと、今度は「世界があるぞ」と言われました。
「今は、奄美全体の医療をどうするかで頭が一杯です」と答えると「奄美の医療を考えるようになったら世界も近い」と言われました。就任挨拶に行っただけなのに、次の課題を与えられたのです。
 その後スリランカ、インド、タンザニア、イギリス、ブルガリアと海外視察の機会を与えられました。医療の脆弱な地域ばかりです。特にブルガリアは2度視察し、建築中の病院も見ました。地元の人々が、かつて奄美での病院開設時の我々と同じ思いで病院を見ているのだろうということは容易に想像できました。「頑張らなければ!」。 ふと気づくと、またもや徳田理事長の掌で踊らされていました。

離島医療の自立が徳洲会の世界戦略に必要だ
 徳洲会はいつでも、 どこでも、誰にでも最善の医療を行わなければいけません。それは世界でも同様です。そのためには本拠地である離島において、足元を固める必要があります。離島の四役会議で、「離島の自立に向けて我々にできることは離島でやる。できないところを本部に依頼する」と決めました。具体的には、離島の病院間を横断的に診療できる医師が必要でしたが、管理職である院長は法律上、病院を離れることができません。
 しかし院長職は手段であって、目標でも目的でもありません。院長を辞すればいい。それで奄美が一つになるのなら簡単なものです。また、前任者の板垣徹也先生が築き上げた名瀬徳洲会病院は基盤があり、院長を松浦甲彰先生が引き受けてくれましたので、何の心配もいりませんでした。
 この動きに関して徳田理事長をはじめ専務理事や多くの先生方のご協力に感謝しています。私は父から人生を学び、永末先生に医療人としてのあり方を教わり、徳田理事長に人としての道を諭されました。今は・生命だけは平等だ・の理念の下、徳田理事長が笛を吹けば踊ろうと決めています。徳洲会は奄美の六調と同じで、調和がとれていれば踊り方は自由で、それもまた楽しいはずです。
 皆で頑張りましょう。
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