徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

徳洲新聞ダイジェスト

Tokushukai medical group newspaper digest

2024年(令和6年)10月28日 月曜日 徳洲新聞 NO.1464 1面

徳田虎雄・医療法人徳洲会名誉理事長
「お別れの会」で1,600人超が献花
離島・へき地医療充実など功績たたえ追悼

徳洲会グループは10月23日、7月10日に86歳で永眠した徳田虎雄・医療法人徳洲会名誉理事長のお別れの会を都内で開催した。実行委員長は東上震一理事長、喪主は徳田秀子夫人。2部制で午前中に行った1部の式典では、長年にわたって徳田・名誉理事長と盟友関係にあった亀井静香・元代議士と、大阪大学時代の同級生である塚本玲三・茅ヶ崎徳洲会病院(神奈川県)名誉院長が弔辞を読み上げた後、東上理事長が代表挨拶を行った。その後、親族や来賓、生前に親交のあった方々らが献花を行った。2部では主に一般の参会者が献花を行った。1部・2部合わせ1,643人の参会者が来場、在りし日の徳田・名誉理事長を偲び、追悼するとともに、“生命だけは平等だ”の理念を掲げ、命懸けで取り組んだ離島・へき地医療や救急医療の充実など功績をたたえた。

映像やパネル用い86年の生涯を紹介

弔辞で徳田・名誉理事長に語りかける亀井・元代議士

午前中に開催した式典では、黙禱に続き、「命の虎 医療界の革命児! 徳田虎雄ヒストリー」と題する20分のオリジナル動画を上映。

友人代表として弔事を読み上げる塚本・名誉院長

「命だけは平等。キリスト教徒も、仏教徒も、イスラム教徒も、無宗教も、生命だけは平等だ」と力強く言いきる徳田・名誉理事長の在りし日の姿を映し出し、生い立ちから、3歳の弟を亡くした少年時代の痛ましい原体験や、苦労しながら奄美群島はじめ全国に病院をつくり続けた道程、弱者のための医療革命を実現するために始めた政治活動、世界の厚生省となることを目指しALS(筋萎縮性側索硬化症)発症後も、病に負けず精力的に世界へ支援の手を広げていった軌跡などを振り返った。

「徳田先生が夢見た未来の扉を開いていきます」と東上理事長

また、「患者さんを診る時には、自分の家族を診る気持ちで臨みましょう」、「両親をはじめ家族を大切にすることから、すべてが始まっているのです」と、徳田・名誉理事長が思いやりにあふれる言葉を職員にかけるシーンも印象的だった。

親族代表として、長女の越澤徳美さんが献花

上映後、“お別れの言葉”として、はじめに亀井・元代議士が弔辞を読み上げた。2羽のハトを模した徳洲会のロゴマークと、白い百合とカーネーションで飾り付けた祭壇上の遺影に向かい、「虎さん、とうとう逝ってしまったなぁ」と惜別の思いを吐露。「あんたくらい自分のことはさておいて、人のために尽くした人はいない。虎さんよ、あんたと仲の良かった石原慎太郎と一緒に相撲をとって遊んでいてくれよ。俺もそのうちいくからな。なあ、虎さん」と語りかけた。

眠りから覚めた虎のように

多くの参会者が徳田・名誉理事長を偲び献花

友人代表の塚本・名誉院長は「本当にお疲れさまでした。普通の人であれば何百年かけても達成困難な仕事を、君は40~50年で成し遂げました。医師になってからの君は“眠りから覚めた虎”のように、わが国の医療改革を目指して大活躍しました」と功績に賛辞を送り、同級生として過ごした大阪大学医学部の学生時代を回顧。

続けて、「君は(弟を亡くした)悔しさを心に秘め、“生命だけは平等だ”のスローガンを掲げ、病気で困っている人を救うために、離島や医療過疎地などに70以上の病院をつくり続けてきました。そして、さらに夢は大きく海外にまで広がりました。君のすさまじい努力によって、日本の救急医療を中心とした臨床医療はレベルアップし、世界に誇れるようになりました」と医療水準向上への貢献をたたえ、学生時代からの友人らしい次の言葉で弔辞を結んだ。

「あの世で、また君に会える日が来るのも、それほど先のことではないでしょう。その時は過去に一度だけ君と一緒に歌った『同期の桜』を、もう一度一緒に歌いましょう。あの世では受験勉強も病院経営も不要です。そして徳洲会は永遠です。安心しておやすみください」

弔電も多数寄せられ、尾辻秀久・参議院議長、衛藤晟一・参議院議員、菅直人・前代議士、小池百合子・東京都知事、鈴木宗男・参議院議員、野村哲郎・参議院議員、森田俊和・前代議士などが差出人に名を連ねた。

大勢の参会者で席が埋まった式典会場

代表挨拶で東上理事長は、参会者に謝意を伝えたうえで、徳田・名誉理事長とのエピソードに言及。「2年前に私が理事長に選任されたことを報告にうかがった際、『事業を行ううえで数字合わせは必ずします』という徳洲会フレーズを言った時、徳田先生が目をぱっと開かれました。もうその頃は病状が進行し、眼球の動きで交わしていたコミュニケーションを取ることも不可能な状況でしたが、そのようななかにあっても、徳田先生は“徳田先生であること”をしっかりと保持されていたのです」と、奇跡的な出来事を紹介した。

また、『いくら仕事ができても、心の温かい人間でないとダメだ』というひと言を、徳田・名誉理事長の著書に見つけ、深く共感したことを、徳田・名誉理事長の人柄を偲ばせる思い出話として語った。

東上理事長は徳田・名誉理事長に対する万感の思いを胸に「あくまでも弱い人の味方になって徳洲会という社会運動を公明正大に続けていくことが、徳田先生の遺志に報いることになると考えています。今後も徳洲会グループは、国内はもとより、すべての患者さんの身も心も救う病院を世界中につくるために、全職員が心を一にして全力投球し、徳田先生が夢見た未来の扉を開いていきます」と誓った。

この後、献花を行った。東上理事長、安富祖久明・最高顧問、福島安義・最高顧問、福田貢・副理事長、徳田・名誉理事長の長女である越澤徳美さんをはじめ親族の方々、亀井・元代議士、塚本・名誉院長に続き参会者が、祭壇の前に設けた献花台に白のカーネーションを手向け、別れを惜しんだ。

惜別の涙雨のなか献花

徳田・名誉理事長の功績や活躍を示すパネルを見入る参会者

午後の2部では、主に一般の方々らを対象とした献花式を行った。涙雨が降るなか、多くの参会者が来場した。参会者は入り口で手渡された白いカーネーションを献花。献花場の出口では1部と同様に、東上理事長をはじめ幹部役員らが答礼を行った。

1部・2部ともに献花を終えた参会者は、隣接する懇親会場で展示品などをよすがに、故人に思いを馳せた。懇親会場には、徳田・名誉理事長のこれまでの歩みや活躍の軌跡をたどる写真パネルや、思い出の品の展示コーナーを設置。パネルは徳田・名誉理事長の子ども時代の写真や全国の徳洲会病院を飛び回る姿、国内外の著名人・要人との面談の様子を紹介。

参会者は写真を見ながら語り合ったり、パネルの前で記念撮影をしたりと、徳田・名誉理事長の人生に触れながら、在りし日を偲ぶ姿が見られた。展示品には徳田・名誉理事長が日々したためていた手帳や全国行脚で履きつぶした靴、1995年に就任した沖縄開発政務次官の任命書が並んでいた。

履き潰した靴や手帳など遺品も展示

参会者として徳洲会職員のOB・OGも多く駆け付けた。奄美大島出身のOBのひとりは「徳田先生は奄美が生んだ宝です。私の両親の代から応援してきました。奄美群島の各島に病院をつくっていただいたことで、安心して生涯を全うすることができるようになりました。私たちにとって柱のような人です。徳田先生の思いを、これからもグループの病院が脈々と受け継いでいってくれると思います」と期待を寄せた。

また徳田・名誉理事長と親交のあった方々からは「開催案内の新聞広告を見て、お別れを告げるために来ました」、「過去に名古屋を拠点に仕事をしていた時に、お世話になりました。ご冥福をお祈りします」と哀惜の念が聞かれた。

さらに「世界の厚生省」を目指した徳田・名誉理事長は、アフリカやアジア諸国などで、病院建設を支援したり、人工透析機器を寄贈したり、現地の医療従事者を国内の徳洲会病院で研修生として受け入れ、技術指導を行ったりしてきた。関係した国々の大使らも弔問に訪れ、国境を越えた支援に感謝の意を示すとともに、別れを惜しんだ。

今後は10月28日に大阪会場でお別れの会、11月12日に徳田・名誉理事長の故郷である徳之島で偲ぶ会を開催する。

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