徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

徳洲新聞ダイジェスト

Tokushukai medical group newspaper digest

2024年(令和6年)07月29日 月曜日 徳洲新聞 NO.1451 1面

追悼──徳田虎雄・医療法人徳洲会名誉理事長
“生命だけは平等だ”を胸に医療改革へ全身全霊
「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会へ」

7月10日に86歳で逝去した徳田虎雄・医療法人徳洲会名誉理事長。幼い頃の原体験から医師となり、1973年に第1号の徳田病院(現・松原徳洲会病院)を開設。北海道から沖縄県まで全国各地に医療・介護・福祉施設を展開し、一代で国内最大の民間医療グループを築き上げた。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と闘いながら、とりわけ離島・へき地医療、救急医療、国際医療協力に注力。徳洲会の“生命だけは平等だ”の理念、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」の実現に向け、文字どおり全身全霊を傾けた。その思いや遺志は国内外の多くの人に引き継がれている。今号では徳田・名誉理事長の追悼特集を全面にわたり掲載する。

生い立ち~草創期 夜間医師に診てもらえず弟を 亡くした怒り・悲しみ・恐怖

安らかに、徳田虎雄先生

徳田・名誉理事長は1938年2月に兵庫県で生まれ、2歳の時に家族で鹿児島県の離島、徳之島に移住した。小学3年生の時に当時3歳だった弟が夜間、下痢と嘔吐で苦しんでいたため、暗い山道を走って医師に往診を依頼。ところが、応じてもらえずに弟は翌日、他界した。

徳田・名誉理事長は自ら医師となり、最善の医療が受けられる病院を全国につくることを決意。徳之島の高校から大阪府の高校に編入し、猛勉強の末に大阪大学医学部に合格した。後に徳田・名誉理事長が掲げる徳洲会の“生命だけは平等だ”の理念、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」を目指す大方針は、弟を亡くした時の怒りや悲しみ、「自分も医者に診てもらえず死ぬのでは」という恐怖が原点となっている。

35歳で生命保険担保に開業

幼少期から壮年期へ

医師となったものの、日本の医療の矛盾に愕然とし、「自分で病院をつくるしかない」と73年1月に開業。大阪府に個人立の病院「徳田病院」を開設した。当時、徳田・名誉理事長は35歳。医師になって7年目だった。資金確保に難航したため、自らの生命保険を担保に金融機関から融資を受け、開院にこぎ着けた。

「年中無休、24時間オープン」、「断らない医療」を掲げ、“医療の原点”として、とくに救急医療の実践に力を注いだ。多くの医療機関が救急医療を敬遠するなか、いつでも対応するスタイルが支持され、次第に理解者や協力者が現れるようになった。

そして75年に医療法人を設立。故郷の徳之島を意味する「徳洲会」と命名し、地元住民の要請から2病院目となる野崎病院(現・野崎徳洲会病院)を大阪府内に開設した。資金や人員の確保に苦慮するなど、決して順風満帆ではなかったが、医療が不足している地域からの要請は続き、77年に岸和田徳洲会病院、78年には八尾徳洲会病院(現・八尾徳洲会総合病院)を開設。

生命保険を担保に融資を受け開設した「徳田病院」

この流れは大阪府以外の地域にも及び、79年に南部徳洲会病院(沖縄県)、福岡徳洲会病院、宇治徳洲会病院(京都府)の3病院を開設した。80年代に入ると東日本に進出。神奈川県、埼玉県、札幌市にグループ病院を開院した。

この頃になると、立て続けに病院を開設していく徳田・名誉理事長に対して、地域医療の崩壊などを理由に各地の医師会が猛反発。激しく衝突する様子が、メディアで報じられることもあった。しかし、徳田・名誉理事長は地域の方々に対して徳洲会の理念や、「患者さまからの贈り物は一切受け取らない」など理念の実行方法を、住民説明会を開き熱心に説いて回った。

患者さんのために良い医療を提供したいという思いや信念が、開院を望む地域住民の熱烈な活動を呼び、共感した専門職の入職が徳田・名誉理事長を後押し、各地で病院をオープンした。その後、医師会の理解も得られ、現在は徳洲会病院の5分の4以上が医師会に加入するなど、各地で良好な関係を築いている。

拡大期 徳之島に悲願の病院開設 17年間で41病院が誕生

徳之島徳洲会病院の竣工式で地域の方々と握手を交わし完成の喜びを共有

人の一生に何度か成長期が訪れるように、苦難を乗り越えた組織もまた大きな発展を遂げる時期がある。徳田・名誉理事長は医療人として、そして徳洲会グループを率いる法人トップとして脂の乗ってきた40代後半に、悲願を叶えた。1986年、故郷である鹿児島県の徳之島で病院開設を実現したのだ。徳洲会による離島での病院開設第1号、徳之島徳洲会病院だ。

徳田・名誉理事長は当初から徳之島での病院開設を見据えていた。しかし、最初に離島に病院をつくっても運営を維持することは難しい。そこで、都市部に開設した病院から離島病院に応援スタッフを派遣したり、スケールメリットを生かした薬剤や医療機器の共同購入によってコスト削減を図ったりする独自の運営手法を築いた。

その鋭い眼光や迫力ある物言い、大胆な決断、情熱の人というパブリックイメージが先行しがちだが、徳田・名誉理事長は一方で徹底した合理精神と、「段取り9割、実行1割」という言葉を残しているように慎重さと繊細さの持ち主でもあった。こうした運営手法の確立がなければ、離島やへき地での病院開設は机上の空論で終わっていたことだろう。あるいは開設できても長続きしなかったはずだ。

少年時代の悲劇をきっかけに決意した「困っている誰もが最善の医療を受けられる病院を全国につくる」という夢を夢で終わらせなかった徳田・名誉理事長。胆力、信念の強さ、克己心、洞察力、繊細な感性など、人間力を備え、それは医療改革という社会運動にひたむきに取り組むなかで、ますます練磨され、強烈なリーダーシップで組織を牽引するリーダーのあり方を体現してきた。

徳之島に錦を飾った86年は、東北初のグループ病院である仙台徳洲会病院など1年間で計8病院をオープン、“病院開設ラッシュ”の1年となった。その後も猛烈なペースで病院をつくり続け、離島・へき地での病院開設も積極的に推進。一気に徳洲会の“拡大期”に突入していった。86年から2002年末までの17年間で、じつに41施設にも上る病院を全国につくったのだ。その間、94年には徳洲会グループ第1号の介護老人保健施設(老健)を開設。以降、介護・福祉施設の充実にも注力した。ただし、すべてが順風満帆というわけにはいかなかった。組織の拡大とは裏腹に、徳洲会の経営は低空飛行が続き、台所事情は厳しかった。それでも理念に基づき病院づくりや人集めに奔走し続けた。

目配りと実行力を発揮

グループの力を結集し阪神・淡路大震災での緊急医療救援活動を展開

ここに1枚の写真がある。宵闇の中、各地のグループ病院から集結した救急車が居並ぶ駐車場に立つ徳田・名誉理事長の姿を写したものだ。1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源としてマグニチュード7.3の大地震が発生した。阪神・淡路大震災だ。発災後、徳田・名誉理事長の号令一下で、徳洲会は緊急医療救援活動を展開した。写真は、徳田・名誉理事長が現地入りした際のものだ。

離島医療強化のため導入した軽飛行機「徳洲号」(写真は2代目)

医師や看護師、薬剤師、事務職員などが、大きな被害を免れた神戸徳洲会病院に駆け付け、同院を拠点病院として活動。大阪や京都の徳洲会病院がバックアップ体制を担った。こうした活動は、国内外で災害医療支援活動を行うTDMAT(徳洲会災害医療協力隊)の結成につながり、現在のNPO法人TMAT(徳洲会医療救援隊)に結実していった。

名瀬病院(現・名瀬徳洲会病院)の竣工祝賀会にも大勢の方々が参加

徳田・名誉理事長の目配りと実行力はさまざまな機会に発揮された。離島医療をより効率的に行うため軽飛行機「徳洲号」の導入を決定したのもそのひとつ。87年4月に運航を開始し、拠点の沖縄(那覇空港)と各離島間を結び、主に医師の移動を助けている。現在も欠かせない移動手段として活躍中だ。

公園なども利用して医療講演を実施した徳田・名誉理事長

世界的に注目を集めた画期的な手術の実施も果断に実行した。96年に湘南鎌倉総合病院(神奈川県)での日本初のバチスタ手術にゴーサインを出した。同手術は、拡張型心筋症に対する手術で、肥大した左心室の心筋の一部を切除し、心臓を適切なサイズに縮小する治療法だ。当時、拡張型心筋症は、移植手術を施さないと必ず死につながる病だった。映画化された小説『チーム・バチスタの栄光』でも一躍話題となった手術だ。

また同年、徳田・名誉理事長は日本体操協会会長に就任し、「体操ニッポン」の復活に奔走。98年にはグループ内に徳洲会体操クラブを創設した。『徳洲新聞』を創刊し情報発信にさらに力を入れ出したのも96年のことだ。医療改革を強力に推し進めるため、90年には衆議院議員選挙に初当選、2000年代にかけて代議士を4期務め、沖縄開発政務次官などを歴任。後の国際医療協力の萌芽となる国際交流にも積極的に取り組んだ。体調に異変を感じた02年4月にALSの診断を受けてからも、国内外で困っている方々のために、精力的に徳洲会グループの舵取りと運営に腐心した。

飛躍期~そしてがん医療や国際協力に力 救命救急センター指定も

チャムロン・シームアン元タイ副首相(右)、ムハマド・ユヌス・グラミン銀行総裁(バングラデシュ、2006年ノーベル平和賞受賞)と共に

徳田・名誉理事長は長きにわたり海外諸国を歴訪し、各国から病院建設の要請などを受けてきた。「私たち徳洲会は“生命だけは平等だ”の理念で、世界各国に病院をつくろうとしています。世界中の人々に慈愛を示し、奉仕すべきです。世界の医療人を結集して、最大の幸福を実現していきましょう」という考えが示すとおり、国際医療協力に積極的だった。

2003年にアフリカのタンザニア、ウガンダ、セネガルと医療協力の覚書(MOU)を締結して以降、徳洲会はこれまで世界24カ国で透析センターの開設支援を行い、計365台の機器を寄贈。06年にはブルガリアで1,000床規模のソフィア徳田病院が、東欧最大かつ最新の病院としてスタート。徳田・名誉理事長が欧州の最貧国であった同国に同院開設を決断したのは、離島・へき地の病院やアフリカの透析センターと同様、困っている人たちを救いたいという単純明快な原則に従ったからだ。12年にはブラジルで、心臓外科の名医でありバチスタ手術で有名なランダス・バチスタ医師が院長を務める徳田虎雄心臓病院の開設を支援した。

開発途上国では、自国の医療に満足しない人々、あるいは先進の医療を求める人々が他国に出て行くこともある。もし、その国に高度な医療を提供できる病院があれば、安価かつ安心して国内で医療を受けることが可能になる。

徳田・名誉理事長は「世界の医療は、金持ち中心の医療で、医療産業の利益や医師のための医療が普通です。徳洲会のような高品質で低価格、患者本位の医療は、どの国からも望まれています。徳洲会の『患者本位の真の医療』という愛の文化を世界中に広めましょう」と誓っていた。

災害時は即断・即決・即実行

徳田・名誉理事長の国際医療協力の基本姿勢は、たとえ回り道でも各国が自力で医療を実現できるためのノウハウを提供するというもの。病院をつくり、医療機器を寄贈しても、それを活用する医療従事者の知識、技術、能力を高めなければ持続できないからだ。徳洲会は現在でもアフリカ、東ヨーロッパ、アジア各国の医療従事者を徳洲会グループ病院に招き、精力的に医療研修を行っている。

「徳洲会は日本の世界の医療革命のために、病院を新設し続け、救急医療から始めて慢性医療、予防医療、高度先端医療、さらにゲノム(全遺伝情報)によるオーダーメイド医療やオンコロジー(腫瘍学)センター、治験センターと『未来医療』にも取り組んでいく」(徳田・名誉理事長)と表明したように、グループを挙げて多様な分野に取り組んできた。

がん医療もそのひとつで、04年に徳洲会オンコロジープロジェクトがスタート。患者さんが全国の徳洲会病院のいずれを受診しても、エビデンス(科学的根拠)に基づき安全性が確立された標準治療を受けられるようにする試みで、徳洲会統一レジメン(治療計画)による標準治療の確立、がんワクチンや抗がん剤の治験、共同臨床研究への参画などが柱だ。

災害医療に対しても「徳洲会は国際災害医療救援隊を組織する。災害時には即断・即決・即実行。現場・現物・現実主義で、率先して真剣に取り組み、臨機応変に行動すべきである」と徳田・名誉理事長は思いを吐露。

05年にNPO法人格を取得し発足したTMATは、国内、国外を問わず大規模災害発生時に、被災地に出動し支援を実施。これまで国内18回、海外20回の計38回、被災地に赴き、徳洲会の医師、看護師、コメディカルスタッフ、事務職を中心に計1,300人を超える隊員が災害医療支援にあたった。

06年には未来医療研究センターを設立し、治験業務などを支援。09年には徳洲会インフォメーションシステム(TIS)を設立、情報システムの整備に積極的に取り組み、電子カルテのベンダー(供給会社)を統一したり、BIツール(病院運営管理ツール)の構築を行ったりした。

ALS発症後も精力的に活動

車いすで奄美大島を訪れ、住民の方々から歓迎を受ける

02年に難病のALSを発症した徳田・名誉理事長。次第に体の自由が利かなくなり、車いすでの生活を余儀なくされたが、それでも12年に北海道から鹿児島県の離島、沖縄県まで各地のグループ病院を訪れた。

13年10月に理事長職を辞任。22年6月には東上震一・副理事長が4代目理事長に就任、徳洲会の理念継承を訴えるとともに、組織改革を断行、グループが新たな時代に突入した。徳田・名誉理事長は20年に、長年の功績に対し医療法人徳洲会名誉理事長の称号を贈られた。

ALS発症後は文字盤を目で追ってコミュニケーション

以降も徳田・名誉理事長の思いを継承し、最新の機器・技術を積極導入。国際医療協力も加速し、18年にタンザニアで現地医療者による腎移植をサポート。TMATは18年にロヒンギャ難民、22年にウクライナ難民を人道支援。現在、インドネシアの国立ハラパンキタ循環器病センターに新病院を建設する共同プロジェクトが進行中だ。

徳田・名誉理事長の信念は、今後も途切れることなく徳洲会グループ職員に受け継がれる。そして、国内外を問わず、病に苦しむ方々のために、たゆまぬ努力が続く。

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