徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

徳洲新聞ダイジェスト

Tokushukai medical group newspaper digest

2024年(令和6年)07月15日 月曜日 徳洲新聞 NO.1449 1面

国内最大の民間医療グループ「徳洲会グループ」創設者
徳田虎雄・医療法人徳洲会名誉理事長が逝去
理念“生命だけは平等だ”を掲げ医療改革に心血注ぐ

医療法人徳洲会(医徳)の徳田虎雄・名誉理事長が7月10日、逝去した。86歳。1973年1月に徳洲会を創始し、“生命だけは平等だ”の理念を掲げ、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」の実現を目指し、北海道から沖縄県まで全国各地に医療・介護・福祉施設を展開。とりわけ離島・へき地医療、救急医療、国際医療協力に心血を注いだ。徳洲会グループとして後日、お別れの会を開く予定。小紙では次々号の1451号(7月29日発行)で、全面にわたり追悼特集を掲載する。

患者さんのために国内外問わず奔走した徳田・名誉理事長

徳田・名誉理事長は10日午後8時15分、入院していた神奈川県内のグループ病院で亡くなった。86歳だった。

大阪大学インターン(修練生)時代の同級生とともに(後列右が徳田・名誉理事長)

徳洲会を創設したのは1973年1月。当時、35歳という若さで、大阪府松原市に第1号の徳田病院(現・松原徳洲会病院)を開設した。資金の確保が厳しく、自らの生命保険を担保に金融機関から融資を受け、個人立の病院として開院し、小規模ながら「年中無休、24時間オープン」、「断らない医療」を標榜し、とくに救急医療の実践に腐心した。

グループ第1号の徳田病院(現・松原徳洲会病院)

75年に「医療法人徳洲会」を設立し、地元住民の要請で2病院目となる野崎病院(現・野崎徳洲会病院)を大阪府内に開設。同様に、救急をはじめ医療に難渋する大阪府内の各地から要請を受け、77年に岸和田徳洲会病院、78年には八尾徳洲会病院(現・八尾徳洲会総合病院)と矢継ぎ早に開設した。大阪府以外の地域からも要望が寄せられ、79年に南部徳洲会病院(沖縄県)、福岡徳洲会病院、宇治徳洲会病院(京都府)の3病院を立て続けに開設した。

悲願だった徳之島に病院開設

その勢いのまま、80年代には東日本に進出。神奈川県の茅ヶ崎徳洲会病院(現・湘南藤沢徳洲会病院)を皮切りに、埼玉県や千葉県、愛知県、仙台市、札幌市と各地でグループ病院を開院。都市部に展開することで人材を確保し、86年には悲願だった離島に徳洲会グループ初の病院、徳之島徳洲会病院(鹿児島県)を設けた。

その後もM&A(合併買収)を含め、90年代には6年間で21病院、2000年代には7年間で15病院をオープンさせるなど、猛烈な勢いで病院を開設。同時に介護事業も進め、1994年にグループ初の介護老人保健施設を沖縄県に設けた。

また、災害医療支援や国際医療協力にも腐心。災害医療支援では1995年の阪神・淡路大震災を契機にTDMAT(徳洲会災害医療救援隊)を立ち上げ、現在、NPO法人TMAT(徳洲会医療救援隊)として国内外で活動している。

国際医療協力では「世界の厚生省に」と、90年代以降、東南アジアやアフリカを中心に透析機器の寄贈や透析センターの開設支援を実施。2006年にはブルガリアで1,016床の病院をオープンするなど、病院開設にも注力した。単に建物を建設するだけでなく、国民皆保険の導入を提案するなど、医療にアクセスしやすい環境を現地政府とともに整備した。

そのかたわら、医療改革を目指し国政に参加。1990年代から2000年代にかけて衆議院議員を通算で4期務めた。この間、日本体操協会会長として、低迷していた日本の体操界復活に奔走するなど活動は多岐に及んだ。

そうしたなか、2002年に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。次第に体の自由が利かなくなり、車いすでの生活を余儀なくされたが、それでも12年に北海道から鹿児島県の離島、沖縄県まで各地のグループ病院を訪れた。13年に理事長職を辞任、徳洲会グループの事業から離れたが、20年に長年の功績に敬意を表し、医療法人徳洲会名誉理事長の称号を贈られた。

すべての始まりは幼少期の体験

鬼気迫る表情で講演

徳田・名誉理事長の活動の原点は幼少期にある。兵庫県で生まれ、ほどなく徳之島に移住。小学生の時に弟が夜間、発病し、暗い山道を走り、医師に往診を依頼したものの応じてもらえず、翌日、弟を亡くした。この時の怒りや悲しみ、恐怖が、自ら医師となって最善の医療が受けられる病院を全国につくることを決意させ、“生命だけは平等だ”の理念、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」を目指すという大方針を生んだ。

1979年に発刊した著書。すでに世界の患者さんを救う構想を綴っている

その後、徳之島の高校から大阪の高校に編入し、猛勉強の末に大阪大学医学部に入学、医師になる夢をかなえた。

徳田病院の開設後も決して順風満帆ではなかったが、患者さんのために懸命な徳田・名誉理事長の姿に、少しずつ理解者や協力者が参集。当時、多くの医療機関が不採算を理由に救急医療を敬遠するなか、いつでも対応する徳洲会のスタイルが支持され、各地の病院開設で地元の医師会と激しく衝突しても、開院を望む地域住民の熱心な活動や、共感した専門職の入職が徳田・名誉理事長を後押しした。医師会との対立も次第に解消され、現在は徳洲会病院の4分の3以上が医師会に加入するなど、各地で良好な関係を築いている。

国際医療協力で、開発途上国の視察も熱心に

こうした功績を称え、奄美大島の瀬戸内町、徳之島の徳之島町、天城町、伊仙町、沖永良部島の和泊町、知名町、与論島の与論町は、それぞれ徳田・名誉理事長に対して名誉町民の称号を授与している。また、2012年には日本政府が創設したアフリカの医学・医療活動の国際賞「野口英世アフリカ賞」に当時の東京都知事が徳田・名誉理事長を推薦した。

徳洲会グループは徳田・名誉理事長が掲げた理念を受け継ぎ、今後もより一層、患者さんのために尽力していく。徳洲会グループでは後日、お別れの会を開く予定。

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