直言
Chokugen
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直言 ~
豊田 國彦(とよだくにひこ)
四日市徳洲会病院(三重県)院長
2020年(令和2年)9月21日 月曜日 徳洲新聞 NO.1254
昭和大学医学部を1971年に卒業後、郷里の三重大学医学部附属病院第一内科で研修し、検尿・血液検査を基本から学びました。また派遣先の国立療養所では、針金で気管支・肺動脈・肺静脈の立体模型を幾度もつくりました。その後、愛知県厚生連に22年在職し内科をオールラウンドに勉強しました。
その間に医学は著しく進歩。たとえば脳出血・脳梗塞の鑑別は、CT(コンピュータ断層撮影)の出現で診断が容易になりました。85年、H2ブロッカーの出現で良性潰瘍の手術は少なくなりました。心筋梗塞も安静・酸素投与・血栓溶解剤の静脈投与のみで死亡率は高かったですが、冠動脈造影・ステント治療・ACバイパス手術などで救命率が著しく向上しました。一般内科とともに結核病棟も担当しましたが、結核は減少していたものの粟粒(ぞくりゅう)結核・難治性膿胸(のうきょう)・多剤耐性結核など問題も多く治療に難渋しました。非結核性抗酸菌症のMAC症も難治性で多発空洞型は呼吸不全死も少なくありませんでした。
これらの経験をもとに2001年、『結核症と非定型抗酸菌症』を新興医学出版社から出版しました。また法定伝染病(法伝)病棟も1999年まで担当し、赤痢コレラ・腸チフス・パラチフスなど担当。法伝ではないですが、とくに熱帯熱マラリアは生命の危険がありました。当時、抗マラリア剤のメフロキンが有効で、高熱で憔悴(しょうすい)していた患者さんが元気になると、医師としての生きがいを感じたものです。新型コロナ感染症の治療経験はありませんが、治療に携われている医師や看護師、その他の方々のご苦労がしのばれてなりません。
徳洲会グループには2002年9月からお世話になっています。当時の名古屋徳洲会総合病院は和気あいあいで、学閥もなく徳洲会の良いところがありました。少し徳洲会に慣れた頃、四日市徳洲会病院(当時は四日市青洲病院)に転属になりましたが、郷里で働けるためうれしかったです。CTもない医療療養型の当院では、あまり検査ができないため経験がものを言います。肺炎も単純写真しかないため聴診が大事です。糖尿病も意識障害や寝たきりの患者さんが多く、経口剤よりもインスリンが主体となります。
また類天疱瘡(るいてんぽうそう)・ヘルペス・真菌症・蜂窩織炎(ほうかしきえん)・疥癬(かいせん)・難治性褥瘡(じょくそう)・皮膚壊疽(えそ)など皮膚科知見も要し、時には協力医である皮膚科医に診断をお願いしたり、また高齢や廃用症候群による骨折も多く、整形外科医にも相談できたりする体制がありがたいです。画像診断は近隣病院との病病連携でスムーズに検査予約、当院の療養病棟への入院紹介にもつながっていると感じています。
胃瘻(いろう)をはじめとする経管栄養などでの延命治療は議論の分かれるところでありますが、頻回の誤嚥(ごえん)性肺炎などを併発しなければ可でしょう。
当院では最期に患者さんが自宅に帰ることは残念ながら少ないですが、最近はサービス付き高齢者向け住宅などへの退院が多く、療養病棟も時代とともに少しずつ変遷しています。
私はドイツ語と登山が趣味です。大学時代、ドイツ語は3年間、毎日3時間勉強しました。四日市医師会報に『スパイ・ゾルゲの生涯』、『森鷗外の3年間のドイツ留学』などを和文・ドイツ語文で投稿したり、NHKドイツ語講座を20年以上視聴したりしています。ドイツ語圏に毎回8日間程度ですが、9回ほど旅行しました。キール近くのラウー海岸で第二次世界大戦中に使われた潜水艦のUボートに乗り込んだこと、カッセルのグリム兄弟の博物館では、わざわざ日本から来たので入館料を無料にしてくれたことが思い出されます。また地震のないドイツは教会、市庁舎が見事でした。
登山は37歳から始めました。最初の5年間の日本アルプスを含め、3000m級26座を登頂。登山は縦走の準備、登山、登山後の記録・写真整理など3回楽しめます。故郷の鈴鹿山脈も三重・滋賀県境主稜線縦走や鈴鹿五十名山踏破など思い出深いです。今は300~400mほどの低山登山を楽しんでいます。
ともかく医師の家系でもなく、50年も医師として働けたのは幸せでした。自分の医師人生に悔いなし、感謝!
皆で頑張りましょう。