徳洲会グループ TOKUSHUKAI GROUP

直言

Chokugen

田村 幸大(たむらゆきひろ)(大隅鹿屋病院副院長(鹿児島県))

直言 生命いのちだけは平等だ~

田村 幸大(たむらゆきひろ)

大隅鹿屋病院副院長(鹿児島県)

2018年(平成30年)9月10日 月曜日 徳洲新聞 NO.1150

懸命な指導受け研修医は貪欲に診療
良い教育は人を集め良い医療へ結実
「地方だからこそできる研修」に恵まれ

去る8月1日、当院は開院30周年を迎えました。地域で唯一の心臓血管外科を標榜(ひょうぼう)するなど大隅半島最大の急性期病院です。4年前に新病院に建て替え、昨年391床に増床。開院から30年を経て地域医療に大きく貢献できる体制が出来上がってきたことを嬉しく感じました。

じつは、15年程前に当院は存亡の危機に立たされていました。常勤医は3人まで減り、313床に対し入院患者さんは150人。当然ながら経営的にも非常に厳しい状況でした。当時、湘南鎌倉総合病院(神奈川県)で内科の修練を積んでいた私にも、その危機的状況は届いていました。大隅鹿屋病院は私自身、初期研修の2年間お世話になっており、恩返しのつもりで1年間だけ戻ることを決意しました。

帰って来てみたものの、すぐにそれを後悔する日々が続きました。内科常勤医は私ひとりだけで、午前診が終わるのは夕方。それから病棟業務を行い、気付くと日付が変わっていて、疲れ果て帰宅。出口がない迷路に迷い込んだ感覚で、何の希望ももてず、「とにかく辞めたい」と思いながら何とか一日一日を乗りきりました。1年間の恩返しのつもりが、多忙すぎて次の行き先を考える時間すら確保できず、2年間が過ぎていました。

全国各地の研修説明会に赴き 当院での初期研修をアピール

そのような状況下、2003年から臨床研修指定病院になることが決定。果たして研修医を育てることができるのか、そもそも研修医を集められるのだろうかと半信半疑でした。「待っていても医者は集まらない。ならば自分たちで研修医を集め育てよう」との井戸弘毅(いどこうき)院長(現・名誉院長)の言葉に、この状況を打開するにはそれ以外の道はないと一緒に立ち上がりました。

賛同した指導医たちが全国各地の大学で開催される研修説明会に足を運び、当院での研修を懸命に宣伝。しかし、「大隅」や「鹿屋」という文字すらきちんと読んでもらえず、「読み方だけでも覚えて」というところからスタートしました。鹿児島空港からバスで2時間、鹿児島市内からフェリーで2時間、加えて高速道路や鉄道はないという説明に、医学生から「そんな所で生活できるのですか?」と質問されることさえありました。

研修医を集めると意気込んでみたものの、頑張っても変えられない「立地」という、とてつもなく高い壁にぶつかりました。

ようやく宮崎県や熊本県など近隣の大学の卒業生が研修医として当院に入ってくれた時は、「よく来てくれた」と皆で喜び合ったものです。研修医が入職すると、早く一人前になって、自分たちを手助けしてほしいという思いから、指導医は懸命に指導しました。これに応えるように、研修医は早く一人前扱いされることを目指し、貪欲に診療に参加してくれました。

見学に来た医学生に対し、研修医が指導医から習ったばかりのことを、生き生きと説明している姿を私は何度も目にしました。研修医は研修医なりに仲間を増やそうと努力していました。

研修医を育てるには時間がかかります。指導医が行えば、すぐに終わってしまうことでも、あえて“黒子”に徹し研修医に前面に出てもらう場面もあります。時間を惜しんでいては5年後、10年後に第一線で活躍する医師は育ちません。

「一緒に病院を良くしよう」教育の力によってよみがえる

当院のスタッフは研修医育成の意義を理解し、患者さんたちにも研修医が行う診療に協力いただけました。医療機関が限られている環境であるため、当院では救急搬送から入院、さらに外来まで一貫して、ひとりの患者さんにかかわり続ける研修機会に恵まれています。熱心な指導医が多く、大隅半島全域から重症症例も集まることから「地方でも良い研修はできる」と信じ、頑張ってきましたが、「そんな地方だからこそ、できる研修がある」ことに気付きました。教育的空気は病院全体の新人教育にも波及し、その結果、多くの新入職員を、自信をもって迎えられるようになりました。

昨年度末までに24人が初期研修を修了、一緒に病院を良くしていこうと取り組んでくれた研修医たちに恵まれ、今や当院の要となって活躍している医師も少なくありません。長い時間がかかりましたが、当院は教育でよみがえりました。良い教育は人を集めます。人が集まれば、良い医療を提供できます。次世代の良き医療人育成のために、皆で頑張りましょう。

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