直言
Chokugen
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直言 ~
鈴木 隆夫(すずきたかお)
一般社団法人徳洲会理事長
2017年(平成29年)5月29日 月曜日 徳洲新聞 NO.1084
「ユー、サノバビッチ! ガッデム、ジャップ!」。米国でチーフレジデントになって間もなく、文字どおり頭から湯気を立てた胸部外科部長に怒鳴られた瞬間「私の母は売春婦ではない!」と怒鳴り返していました。
彼は有能でしたが、我が強く若い医師に雑用ばかり押し付けてくる「嫌な奴」でした。若い医師たちから、この外科部長の手術の手伝いやペーパーワークは一切やらないと宣言され、私はそれを認めました。彼がオペ室に来ても助手はおらず、退院抄録は誰も書かないため、そのフラストレーションを私にぶつけてきたのです。私は怒鳴り返したその足で、院長のところに向かい経緯を説明し彼の態度について抗議しました。戦争で父を亡くし食べ物もないなか、女手ひとつで育て上げてくれた故郷の母を、多くの仲間の前で罵られたことには耐え難かったのです。院長には「それは彼が間違っている」と心から詫びていただき、私の指導医のマーク・ギャン教授、暴言を吐いた外科部長からも詫びられました。その時、教養ある米国人の懐(ふところ)の深さと真摯(しんし)な態度に深い感銘を受けました。その後、周囲は私に一目置くようになったのです。
人間として守るべき誇りや名誉があることを教えてくださったのは、インターンの頃にハワイで知り合ったダニエル・K・イノウエ上院議員でした。私は彼の父親の主治医になり、気に入られたのかいろいろな話をしていただきました。彼の右腕は肘(ひじ)から上しかなく、初めて会った時、左手で力強い握手をしていただいたことを覚えています。彼は第2次大戦中、第442連隊戦闘団時代に、北イタリア戦線で孤立中のテキサス大隊を救出したことで米国史に刻まれています。彼は右腕を吹き飛ばされ、腹部を撃たれ、左足に被弾しながらも戦い抜きました。
右腕を失ったことで外科医になる目標が閉ざされた時、人のために政治家として立つことを決意しました。彼が困難な状況のなかでも常に前向きで心折れることなくいられたのは、人と正面から向き合い、否定せずに耳を傾け、書物から知識を得ることで、大きな視野をもてたからです。彼の口からはたびたび日本人としての誇り、守るべき名誉、そして何よりも日本文化の「恥」が語られました。
ギャン先生との手術の際、私はとっさに先生の手を止めたことがあります。怪訝(けげん)な顔をする先生に「恐らく自分の思い違いだと思いますが、尿管を挟(はさ)んでしまっているかもしれない。もう一度ご確認を」と進言すると快諾され、実際に尿管が鉗子(かんし)に挟まれていました。「サンキュー、隆夫。だから、お前と手術することが好きなんだ」。医療では経験の有無にかかわらず傍観者であってはいけないのです。どんな名人でも100%正しい結果を出すとは限りません。患者さんの命を守るために、お互いの誤りの可能性を指摘し合い、患者さんを合併症から守る仕組みができることを願っています。
私がレジデントを修了した時、自分が最後まで残れた理由をギャン先生に聞きに行くと、「君は正直で、よく働いた」と話され、「素晴らしい師と弟子が出会っても、決してうまくいくとは限らない。それは2人の相性による。うまくいく師弟が出会えることは本当に幸せなことだ。サンキュー、隆夫」と送り出していただきました。私は研修医時代も徳洲会入職後も、多くの患者さんや人々と出会い、それが時を経た今も自分の人生を輝かせていただいていることに感謝しています。
新入職の皆さんは慣れない環境のなかで四苦八苦していることでしょう。でも、忘れないでください。あなた方を支援しサポートしたい先輩や同僚はたくさんいます。時間もたくさんあります。“医療は患者さんのため”という本質、これは誇りをかけて守るべき価値があるものだと私は信じています。皆さんは今、植えられた一粒の種です。「1年後に成果を求めるのなら稲を植えよ、10年後に成果を求めるのなら木を植えよ、100年後に成果を求めるのであれば人を育てよ」。徳洲会創設から44年、医療大学の開校という大きな目標に向かって一粒の種が植わったばかりです。100年後の徳洲会が世界の医療をリードできるよう育てていかなくてはなりません。
皆で頑張りましょう。