直言
Chokugen
Chokugen
直言 ~
福島 ミネ(ふくしまみね)
沖永良部徳洲会病院副院長
2015年(平成27年)11月16日 月曜日 徳洲新聞 NO.1006
当院が位置する沖永良部(おきのえらぶ)島は沖縄に近く、徳之島に隣接するサンゴ礁の島です。周囲約56㎞、人口は約1万3000人。年間平均気温22℃という温暖な気候に恵まれ、四季を通じて熱帯、亜熱帯の花々が咲き誇る自然豊かな島です。病院から眺める太平洋の大海原は過去を蘇らせ、未来の夢を想像させてくれます。
戦後、奄美(あまみ)群島が米国の占領下にあった時代は日常の言動が制限され、就学の自由も奪われ進学したくとも本土には行けず、全島民が団結し志気を高めて島内を行進、「日本復帰運動」を展開しました。北緯27度線までの返還で、与論(よろん)島と沖永良部島は切り離されるとの報道に、両島はさらに熱狂的に島内行進を続けました。この叫びが通じたのか、1953年12月25日、奄美全島の祖国復帰が叶いました。今、世界各地で発生しているテロや内戦による悲惨な状況を見聞するたびに当時を思い出し、祖国を追われる苦難を想像して胸が締め付けられる思いです。
当院は今年で開設25周年を迎えました。当時、徳田虎雄・前理事長の崇高な理念と血の滲(にじ)むような努力で奄美全島に病院が設立され、離島でも「いつでも、どこでも、誰でもが医療を受けられる体制」が整ったのです。それまでは死を目前にしても受診すらできず亡くなるしかありませんでした。その悔しさは永久に忘れられないと語ってくれた島民が何人もいますが、「今は幸せです」と言ってくれます。
病院までバスの送迎があり、介護保険の通所リハビリテーションを利用、いざという時には救急車が来て、24時間対応の訪問看護も受けられます。「住み慣れたわが家で最期を迎えることもできる安心感は、何物にも代え難い」と感謝の声をいただくこともあります。
歳月の経過とともに病院の老朽化が進み、度重なる台風被害に建物は耐えられなくなりました。台風発生時は接近前に対策を考え、新聞紙やダンボールで窓を目張りし、雨漏りに備えてベッドを移動させ、壁側に布を敷き詰め対応しています。また近隣の独居者や不安を訴える方には、適宜、通所リハビリ室や患者待合室で待機していただき、在宅酸素療法中の方や外来透析中の方には、入院していただき対応しています。
最も困難なのは石灰沈着や腐敗が進んだ配管への対応で、島内の修理業者で復旧できない場合は島外に依頼するため、船便で何日も要する場合があります。いつ破裂し、患者さんのケアが滞るかが心配です。
2002年4月には病床区分の変更にともない4、5階の療養病棟を8床部屋から4床部屋に改装。余剰ベッドをすべて3階の一般病棟に移転させたため、急性期の混合病棟は48床から62床となり療養環境が悪化しました。手術室を含む2、3階病棟の増築予定が二転三転し、この12年間、患者さんにご辛抱いただきました。毎月12~14科の診療をグループ病院および他院からの応援で特別診療として実施するなかで、予約の調整や診察室、待合室の環境に配慮するなど、スタッフも患者さんも忍耐強く過ごしてもらっています。
最近は①救急患者さんの搬送支援(沖縄県に近いためドクターヘリや自衛隊機による支援)、②輸血血液の確保(和泊(わどまり)と知名(ちな)両町の協力体制)、③外装工事による台風対策の軽減、④介護保険部の改善、⑤各部署の協力体制の強化――がなされました。
今年に入り、何度も消えかけた新築移転の灯を前理事長の意志を受け継ぐ鈴木隆夫理事長が再燃させてくださいました。安富祖(あふそ)久明・副理事長はあらゆることを検討し経営状態を立て直すため当院を沖縄ブロックの病院に変更、自らも泌尿器科の診療を実施されています。日帰りで70人余りの患者さんを診察する傍(かたわ)ら各集落で医療講演を開催。職員教育にも注力されています。また中部徳洲会病院の伊波潔(いはきよし)院長が南部徳洲会病院と連携し、診療の応援や医事課指導にもかかわってくださっています。
沖永良部島には「結束(ゆいたば)」という文化があります。忙しかったり困ったりした時、ひとりではできないことも皆が結束して頑張れば成果が上がるというもので、今も受け継がれています。
多くの方々のご支援によりようやく機能している当院も、新築移転の暁には晴れて皆様にご恩返しをしたいと考えています。
皆で頑張りましょう。