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徳田虎雄対談集
ゲスト:高木美保さん(たかぎ・みほ)
1962年東京生まれ。84年、映画『Wの悲劇』で女優デビュー。昼のドラマ『華の嵐』で脚光を浴びる。98年から本拠を那須に移し、農業に従事。著書に工ツセー「木立の中に引っ越しました」(幻冬社)。

「自然は心と体を癒してくれるから生命を大切に思えるようになる。」
映画をプロデュースした経験も

徳田 僕は映画をプロデュースしたことがあるんですよ。
高木 また、なぜそんな因果な仕事をされたんですか(笑い)。
徳田 二十年ほど前、末期ガンの若い医師が妻や幼い娘、妻の胎内にいた子に向けて書いた『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本が大ベストセラーになったのだけど……。
高木 ええ、覚えています。
徳田 若くして亡くなつた井村和清君は徳洲会の病院で働く内科医でね。よく知っていたから、ぜひとも彼の映画を作りたかった。『ベルサイユの薔薇』のプロデューサーの山本又一郎さんが、伺じ徳之島出身で友達だったので、そのつてで映画会社に話を持っていったんだけど、全部断られた。だから、自分でプロデュースしたんですよ。名高達郎さんや竹下景子さんに主演してもらってね。結果的には大ヒットして三億五千万円ぐらい儲かりました。
高木 映画製作はその一作だけですか。
徳田 その後、もっと映画を作ってくれと言われたけれど、一切作っていません。あの作品はどうしても作りたかったから制作したけれど、もともと映画自体に興味があったわけでないから。一作当たったからといって、ねらって作ってもだめ。人間、気の向かないことをしてはいけないと思ってます。
高木 同感です。実は、女優の仕事に興味がなくなって、三年前から那須で農業中心の生活を始めましたが、やりたいことをやるほうが遥かに気持ちがいいと思いました。
徳田 女優を辞めたくなるできごとでも?
高木 私は人に与えられた言葉を喋るより、不器用でも自分が使いたい言葉を話したい人間だと気づいたんです。友達に誘われてこの世界に入ったのですが、すぐに向いていないとわかりました。ただ他に仕事のあてもなかったので、とりあえずどれぐらい向いていないか調べてみようと思って続けて、やっぱり向いてませんでしたね(笑)。女優ってみんなからちやほやされていて、何を演じても「わ−、すごい」と言われちゃう。それが、物足りなかったんです。

お互いに何かと「戦う人」

徳田 私はずっと戦ってきているんですよ。弱きを助け、悪しきをくじくというのをやらないと人が助からないと思っていて。
高木 いままでに、どんな悪をくじかれてきましたか。
徳田 たとえば、病気にかかった人が病院にいっても、土曜、日曜では診察しない医師がいる。交通事故で血を流していても時間外だからと診ない医者もいます。これは本当は犯罪だと思います。自分は技術があるのに、見て見ぬ振りをする。そんな医師は医師ではない。こういうことに対しては厳しくぶつかっていかないといけないと思っています。
高木 どのようにぶつかっていかれたのですか。
徳田 うちの病院は年中無休で二十四時間オープンにしました。また贈り物をもらうと、私だってその人から先に診察したくなるから、贈り物は一切もらわない。基本的には自分の本心の反対をすることに決めたんです。戦いというのは、だからまず、自分の本心と戦うということです。「生命だけは平等だ」と思っているから、診察すべきときに診察しない病院全体と戦ってきた。
高木 先生がおっしゃる通り、誰に対しても生命は平等だという態度で仕事をされるお医者さんが、本当のプロフェッショナルですね。私の叔父が医者をやってまして、そういう人なんです。そんな叔父の姿を見てきましたから、小さいころからお医者さんを見分ける力はあったんですよ。「この人は本当のお医者さんだけど、あっちのお医者さんは本物ではないな」とかね。
徳田 あなた自身も女優をしながら、いろいろと戦ってきたのではないですか。
高木 戦ってきました。私は「保身」に汲々とする人間が嫌いなんですよ。良い作品を作るためには、徹底的に議論をすべきだと思ったらそれをやれる人、それがプロフェッショナルだと思っています。でも実際の現場ではえらい人の顔色をうかがって「なあなあ」ですませようという人が多かったですね。
徳田 あなたは、「なあなあ」ではすませられないだろうな。
高木 ずいぶんいろいろな人と戦ってきました。だから「生意気」とか「使いにくい」というのが私のキャッチフレーズだったんですよ。ただ、そのうち戦っても無駄なこともあるんだなと思うようになってしまって。それなら場所を変えて、もっとストレートに自由に生きられる場所で頑張ったほうが早いぞと思って、本を書いたり農業を始めたりしたのです。

農家の方達に何かお返しを

徳田 畑はどのくらいの広さですか。
高木 三年前に那須に越してきたときは、六十坪程度の自宅の庭でスタートしました。だんだん畑を広くしていって、今は三百六十坪の畑があって、人参、トマト、キュウリ、カボチャや里芋、サツマイモなどいろいろな野菜を有機農法で作っています。それから今年から百坪ほどの田圃でお米も作り出しました。
徳田 農業を始めるきっかけは何でしたか。
高木 もともと私は虚弱体質なんですが、十年くらい前からあまりの仕事の忙しさに、自立神経失調症になってしまいました。鬱状態になって、開いている窓を見ると、そこから飛び降りてしまいたいと思ったり。自分でも怖くなるほどでした。
徳田 それは、身も心も追いつめられた、かなり危険な状態にありましたね。
高木 そんなときにロケで青森県の奥入瀬渓谷を訪れて、自然に囲まれると心がほっとすることに気がついて。そこから、農業に関心を持ち始めましたね。いままで女優で収入を得ていたのに、全く違う環境で違うことをするわけですから、農業を始めるのには勇気がいりましたが、決意して両親に伝えると、「私たちも一緒に行く」ということになって。結局、離れていた両親とも一緒に暮らすことになりました。
徳田 私は、五、六歳のころから農業をしていて、いまだに、手に鎌の痕がたくさんある。あなたの場合、農業はそれが初めての経験だったわけですね。
高木 葛飾で育ちましたから、子供の頃から土に触れた経験が本当に少なかったんです。農業はまさにゼロからで、周りの農家の方たちに、すごく助けられましたね。
徳田 体調はよくなりましたか。
高木 ええ。自然の中で暮らすこと、そして周りの農家の方たちとの関わりがよかったのだと思います。医療は人を癒しますが、私は人の心や自然の環境によって癒されましたね。
徳田 あなたが癒されたのは、やはり土の上で働いたからだと思う。自然は人間の心にはとてもいいんですよ。私は子供のころ、学校から帰ってきたら、すぐに畑に行って母親の手伝いをしていた。それは理屈ではなくて、素直な気持ちだったんです。一生懸命、働いている母親を助けるのはね。そうするもんだと思っていました。農業をすることで、何かを大切にする気持ちが芽生えてくるし、生命も大切に思うようになります。
高木 本当にそうですね。私は、農家の方たちにとても助けていただいたので、今度は農家の方たちにお返ししたいと思っています。いまの農業って本当に恵まれない状況にありますから。一生懸命働いても収入は上がらないし、跡継ぎのなり手もなかなかいない。希望を失いつつある人たちに、なにか私にできることないかと考えています。

「教育の原点は自然を通して生命の尊さを教えること。」
子供たちに、今教えたいこと

徳田 あなたが農業を始めて癒されたという話を聞いて、ぜひ提案したいことがあるんですよ。できたら、那須でも静岡でも北海道でもいいから三千坪くらいの畑をもって小学生や中学生、高校生に農作業のボランティア活動をさせてほしい。週末だけでもいいから。
高木 なるほど。
徳田 あなたは自然や農家の人たちによって癒されたと言ってましたが、それは子供たちにも言えること。いまの子供たちは、自然と触れ合う機会がなくて、テレビやゲーム機ばかりにかじりついている。これは東京だけではなく、実は地方の子供も同じで、そういう中で子供たちがおかしくなつている。
高木 確かにそれは言えてますね。いまの十代の子供の両親自体が、完全に都会化した文化の中に育っていますから。親の世代がとにかくスピーディに効率良く動けばいいんだという価値観の時代に生まれている。そして、それが幸せなんだと思ってしまっています。私自身もそういう中で育ってきたわけですが……。
徳田 教育の原点は生命の尊さを教えることにあると思うけれど、それを教えるのに農作業はとてもよいと思います。土から育ってきたモノを人間は食べているんだ、それを作るためにはこんなことをするんだと体験することで生命の大事さを知るから。
高木 初めてトマトを作ったときにとても感動しましたね。芽が出たときにあまりに小さかったので、どうせ実をつけないだろうとそれほど世話をしなかったんです。ところがそのトマトが自力で一生懸命育って、実をつけて。それをいただいたら本当に体がぽかぼか温まって、元気が出ました。細胞がはじけるような感じ。そのときに、私は生かされているんだなという実感を初めて持ちました。これは子供たちにも感じさせてあげたいですね。

自分で野菜を作り、鶏をつぶす経験が大切

徳田 自分でジャガイモでもなんでも作って、ふかして食べると、今度、自分でジャガイモを食べるときもそのことを思い出して食べる。一度自分で野菜を作った人は野菜を大切に食べますよ。鶏も一度殺してみるといいんだけどね。
高木 大学で環境教育などを研究している方たちが、そういうことを経験する合宿を主宰しているんです。畑から自分たちで野菜を取ってきて、鶏も自分でつぶして。生かすことから殺すこと、そしていただくことまで全部経験するわけです。鶏をつぶすのは大変なこと。首をコキッとやらなければいけないけれど、コケコケコケーつて鶏が騒ぐんです(笑い)。
徳田 そういう経験をすると焼き鳥を食べるときでも必要な分だけ頼んで、残したりはしないようになるでしょ。僕は小さいときから育てた鶏を病気の弟を助けるために、心を鬼にしてつぶした。牛が産んだ子供が売られていくのを涙を流して見送ったりもした。
高木 そういう経験は大きいですね。
徳田 僕は本当は不登校の子を集めた学校をやりたい。それで好きなことをさせる。釣りだったら釣りばかりさせる。卒業までに算数はできるようにさせるけど。商売するのに計算は必要だから。魚をモリでつくとかそういった経験をするのも大事なのですよ。
高木 私も高度成長期に育ってますから、手を汚して何かをするということが見えなかった。この年になってやっと、人間は他の動物や植物の命を殺さないと生きていけない、という宿命みたいなものを知りました。そのときに、初めていままで食べてきた牛とか豚とか鶏とかお米とか野菜が、あれは命だったということがわかりましたね。

土と触れ合うことで癒される

徳田 人間は本来土の上を歩くべきもの。だけど、いまはどこもコンクリート。もっと土の上を裸足で歩く経験があるといいのだけどね。
高木 前から思っていたことですが、都会にも土を増やすことはできないでしょうか。たとえば学校の校庭を土にするとずいぶん変わると思います。以前ニューヨークで人の心がすさんだときに、ボランティアの人たちが「コミュニティ・フォレスト」といってスラムの小さな空間に木を植えたり、そこにベジ・ガーデンを作って、地元の人たちが世話をするというふうにしたんです。
徳田 小さな森を作ったわけですね。
高木 そうしたら地域の人たちがものすごく変わった。自分たちの力でコミュニティ・フォレストを守っているということにとても誇りを持つようになったのと、それから土と触れあうことによって癒されていった。そういうことを東京でもやるべきだと思うのです。
徳田 それは絶対やるべきだね。校庭の他に、ビルの屋上に全部土を入れて、畑にして野菜を作るのもいい。そうするとビルのクーラーの値段が下がるはずなんだ。地球環境にもいいし、人の心にもいい。
高木 いまもいろいろな団体が、都会に土をという活動を熱心にやっていて、私もたまに原稿を書いたりしてお手伝いしているところなんですけど。

農業を体験した人間には、帰る場所がある

徳田 あなたは自分を癒したわけだけど、それだけではなく、多くの人を癒せる可能性があると思うな。子供たちが参加できる農業ボランティアをぜひやってください。あなたがやれば、人が集まってくるし、協力者が出てきますよ。
高木 先生が声をかけられれば、もっとたくさんの人が集まるのではないでしょうか(笑い)。
徳田 いや、あなたのような人がやったほうが、大勢の人が興味をもつんですよ。それにあなたが飛び降りそうなくらいに身も心も追いつめられた経験があること。やはりそういう経験のある人の言動は人を動かします。僕は子供たちにボランティアをさせるべきだと思うけど、ただ、それは楽しんでやってもらわないとね。
高木 確かに私は自然との触れあいで、癒されましたからね。
徳田 あなたは自分の心と体を自分で癒したけれど、あなたと同じ状況に追い込まれた人のいったい何%がこちらの世界に戻ってこられるか。すごく少ないですよ。実際、年間自殺していく人が三、四万人もいる。だけど、あなたと一緒に農業を体験した子は、将来何かで追いつめられてもきっと農業に帰ることができる。
高木 いま講演活動は結構やっているんです。ただ、飛行機がだめなので、本州にしか行けないのが悩みなんですが。
徳田 それはいけません。すべての人に平等にやらないと。飛行機はいいですよ。僕はセスナとか大好きだけどな。
高木 えー閉所恐怖症なので、絶対だめです(笑い)。
徳田 セスナに乗ると気持ちいいですよ。とにかく飛行機にどんどん乗って、北海道や九州にも来て話をしてください。
<終わり>